1968年のメキシコ五輪で日本は銅メダルに輝いたものの、1972年のミュンヘン五輪は出場権を逃し、そこから6大会連続で五輪に出場できなかった。28年ぶりの出場を勝ち取ったのは1996年アトランタ五輪のU-23日本代表チームだった。

そして、このチームは本大会のグループステージ第1戦でブラジルを1-0で破り、“マイアミの奇跡”と呼ばれる快挙を成し遂げた。当時キャプテンを務めた前園真聖氏に五輪サッカーの思い出を語ってもらった。

■28年ぶりにこじ開けた世界への扉

「自分たちは28年前のことはあまり記憶になかったので、サッカー=五輪というのはあまりつながっていませんでした。サッカーで言うと、一番目指すところはワールドカップでしたから、五輪は子どものころから見ていましたけど、他の競技のイメージのほうが強かったですね」

「1996年のアトランタ五輪は、93年に(Jリーグが開幕して)プロ化して初めての五輪だったので、アマチュアではなくプロとして、日の丸をつけて世界に出られるという意味では、モチベーションは高かったですね」

当時の代表メンバーは、川口能活、松田直樹、中田英寿、城彰二といった、のちにA代表でも活躍する選手たちが名を連ねており、しかもメンバー全員がJリーグのチームに在籍していた。

「Jリーグの選手が中心だったので今と違って五輪のチーム作りもかなり時間をかけることができましたし、結束力も高かったので、自分たちは絶対に出場できるんだという自信は何となくありました。28年ぶりというよりも、自分たちが新しく世界への扉を開くんだという意識で臨んでいました」

そして1996年3月24日、マレーシアで行われたアジア地区最終予選準決勝のサウジアラビア戦に2-1で勝利し、世界への扉をこじあけた。

だが、こじあけた扉の先にはとんでもない強敵が待ち構えていた。日本はグループステージでブラジル、ナイジェリア、ハンガリーと同組になる。

「ブラジルとナイジェリアは当時、世界でもトップクラスでしたから、世界のトップリーグで活躍している選手たちと実際に対戦できるのは楽しみでしたね」

初戦の相手は言わずと知れたサッカー大国ブラジル。試合会場はマイアミのオレンジボウルだった。

「観ている人は当然、ブラジルの試合を観に来ているわけですよ。それはわかっていたし、僕らも相手との力の差を感じていました。ですから、かなりの時間を費やして分析し、ブラジル戦に臨みました。相手が押してくる時間も長くなると思っていましたし、自分たちがやれることをやるだけでした」

日本チームは前半、ブラジルの猛攻に耐え、0-0で折り返した。

「僕らは前半を0-0で行けば、こっちのペースになると思っていました。向こうはたぶん、前半で3点ぐらい取って、主力を温存してゆっくりと試合を運ぶ考えだったと思うんですけど、後半に入ったときに顔色が少し変わっていて、焦りが出ているなというのは感じました」

「あとはスタジアムの雰囲気も、『意外と日本チームが頑張っているな。日本を応援しようかな』という感じに変わってきたので、それも僕らにとって追い風だったと思いますね」

すると後半27分、路木龍次が左サイドからブラジルのディフェンスラインとゴールキーパーの間に山なりのボールを放り込んだ。そのボールを狙って城彰二がゴール前に走り込むと、相手ディフェンダーとゴールキーパーが交錯。こぼれ球を伊東輝悦がゴールに蹴り込んだ。

待望の先制点をもぎ取った日本代表は、その後もブラジルの猛攻をしのぎ、1-0で勝利。大金星を挙げた。でも、選手たちは割と冷静だったという。

「1996年は今みたいにSNSがあるわけではないので、僕らはリアルタイムで日本の盛り上がりを感じることはできなかったです。次の日の朝に日本のスポーツ新聞のコピーが送られてきて、『日本は盛り上がっているな』という感じでした。それとブラジルに勝った喜びよりも、ここで勝ち点を取ったぶん、あとの2試合が大事だなと、気持ちを切り替えていましたね」

■前園氏が感じた、“五輪”

ブラジルに勝った2日後のナイジェリア戦の試合会場は、オーランドのシトラス・ボウル。この試合も前半を0-0で折り返した。

「僕らはブラジル戦以上に手ごたえを感じていて、勝てるんじゃないかという自信もあったので、後半はもう少し攻撃的に行きたいところではありました。ただ、それは攻撃側の意見であって、守りの部分では相手のフィジカルの強さやスピードに苦労しているところがあったので、逆に前半を終えてからチームとしてのまとまりはすごく難しかったですね」

後半はチームとしてのまとまりのほころびを突かれて2失点。決勝トーナメント進出はハンガリー戦の結果次第となった。

「あの試合は勝ちに行くべきだったのか、引き分けでもいいからある程度守りながら勝ち点を狙うべきだったのか、どちらが正解ということではなく、日本としては初めて世界に出た経験のなさというのがあったかもしれないですね」

第3戦のハンガリー戦は勝つしかない状況で、ブラジルと勝ち点で並んでおり、しかも得失点差でリードされていたので、より多くの点数を取らなければならない試合だった。

「ハンガリーも決して弱いチームではなかったですし、難しい試合になりました」

この試合は後半ロスタイムからの2ゴールで劇的な大逆転となり、3-2で日本が勝利したものの、同時刻に開催されていたブラジル対ナイジェリア戦でブラジルが1-0で勝ったため、日本は2勝1敗で勝ち点6を獲得しながらも、グループステージ3位で決勝トーナメント進出を逃した。

「残念ではありましたけど、プロになって初めての世界大会だったので、テレビで見ていた選手たちと実際にピッチでマッチアップし、技術であったりスピードであったり、これが本当の世界のトップレベルなんだなと感じました。僕は五輪が終わってから世界に行きたいと公言するようになったんですが、初めて世界を間近に感じた大会でもありました」

この大会以来、7大会連続で五輪に出場することになる男子サッカー日本代表。2012年ロンドン五輪では決勝トーナメントに進出して4位になったが、自国開催の五輪でそれ以上の結果を出すことができるだろうか。

「今は多くの選手が世界のクラブで活躍しているので、招集期間が短い中でのチーム作りというのは僕らのころより難しくなっているのは確かです。ただ、それでもやらなきゃいけないのがプロですし、個々の選手を見ると今までになく期待できる代表になります。ただ、世界のレベルも上がっているので、簡単ではないですよ」


保井友秀

1974年生まれ。出版社勤務、ゴルフ雑誌編集部勤務を経て、2015年にフリーランスとして活動を始める。2015年から2018年までPGAツアー日本語版サイトの原稿執筆および編集を担当。その他、ゴルフ雑誌や経済誌などで連載記事を執筆している。