甲子園名物「アルプス取材」は禁止

 例年ならば、阪神電車の甲子園駅西口改札から出て、大型スーパーを右手に眺めながら歩くと数分で到着する入り口が変更になった。ホームベース後方に位置する関係者入り口、6号門が、三塁側に近い8号門になった。受付で所属と名前を書き、サーモグラフィーですべての通行人の体温をチェック。少しでも体温が高そうな反応が出た人は、関係者による検温が命じられる。37・5度以上であれば、入場できない。そこから普段なら使えるエレベーターではなく階段で球場の4F部分にある記者席まで上がっていく。記者席は主なスポーツ紙の場合は4席。一定の距離を空けているので、担当者以外は記者席横のメディア関係者エリアで間隔を取って観戦する。テレビに映る出場校の保護者同様、銀傘の下の上部が指定されており、直射日光にさらされることはない。プロ野球のスカウトはその前方だが、こちらも、日差しが届かない銀傘の下に区分けされている。

 甲子園名物の取材方法も禁じられた。活躍した選手の深いエピソードを引きだそうと、スタンドで応援する保護者に話を聞く、いわゆる「アルプス取材」。記者稼業のイロハが詰まった駆け出し記者の登竜門のようなもので、灼熱の太陽の下で必死に話を聞いたものだが、これも御法度となった。キラ星輝くドラフト候補選手が躍動したときも、スタンドを駆け回って各球団のスカウトからコメントを集めるのだが、これも禁じられている。大会本部からは「保護者、スカウトの取材は電話で」と決められている。スカウト陣とは普段の取材で付き合いがあるから、事情を理解して協力してくれているが、個人情報保護の時代、保護者の携帯番号を事前に調べ上げるのは困難。今大会、この手の原稿を各紙で見かけることはほとんどない。

 各校1試合限りの熱戦が終わると取材に入る。監督と指名選手は例年通りの中継局のインタビューゾーンに案内されるが、それ以外の選手はいったん、一塁側ベンチ横の階段を降りた後、すぐ右側に出てくる階段でスタンドに上がり、内野席の内側にある、普段、弁当、焼き鳥、ビールなどの飲食物が販売されている通路に誘導される。

 例年使用されていた1F通路は冷風機こそあるものの、換気が悪く、取材対象と取材陣が狭いエリアに集まり、熱気に包まれる3密の見本市のような空間だった。大会本部は、無観客であることから、普段は観客がいる球場内通路を取材場所に指定した。この取材ゾーンの入り口は、選手と報道陣が重なり、密ができないように、別々に分けられている。壁に背番号1から20まで貼り出されており、その前で取材が始まる。取材側はもちろん、試合を終えたばかりの監督、選手も全員マスク着用。対面ではあるが、仕切りを使って、飛沫が届かない距離を保つ仕組みがなされている。

 取材ゾーンは、通常開催であれば、お客さんが入っているエリアなので冷房が結構効いている。空気の通り道でもあるので「今までの1F通路のようにそこまで暑くない」という評判だった。大観衆の熱気がないためか、浜風が今年は強めなのか、記者席にいても、風が通り抜けて、涼を感じる一瞬もあるという。選手の一プレー、一プレーの熱量は不変だが、最近は夏フェス化していた甲子園は、明らかに様子を変えていた。

最も割を食ったのはあの企業かもしれない

 もっともお寒い思いをしているのは、甲子園球場を保有している阪神電鉄かもしれない。そもそも甲子園球場は、1924(大正13年)、大観衆が押し寄せるほどの人気になった高校野球の全国大会を開催するために作られたもの。そういった経緯があるため、日本高野連から球場使用料が支払われていない。その代わりに大会期間中の飲食、物販代と鉄道の運賃収入が見込めるというスキームだった。それが春夏ともに大会が中止となり、交流試合は無観客開催となった。

 「なんとかして甲子園の土をふませてあげたい」と話していた日本高野連・八田英二会長は、面目を保つことができた。選抜を主催する毎日新聞社、選手権を主催する朝日新聞社はこの大会をともに後援することで並び立った。歴史上、甲子園がない1年という最悪の事態を回避でき、例年通りの報道もできた。今回の交流試合実現は、日本高野連が選手権の中止を決めても、高校球児のために、球場を例年通りの期間、空けておいた甲子園球場のおかげである。陰の立役者と呼んでいいが、今回に限っては大会要項にある通り、まさに「特別協力」という存在になった。このコロナ禍のご時世、三方良しとはなかなかいかないものなのか。密が消えた聖地からは、100年も続いていたバーターも消えていた。コロナの影響を最も受けたのは、大会実現に向けて最大のアシストをした甲子園球場といってもいいかもしれない。


大澤謙一郎

サンケイスポーツ文化報道部長(大阪)。1972年、京都市生まれ。アマチュア野球、ダイエー(現ソフトバンク)、阪神担当キャップなどを務め、1999年ダイエー日本一、2002年サッカー日韓W杯、2006年ワールド・ベースボール・クラシック(日本初優勝)、阪神タイガースなどを取材。2019−2021年まで運動部長。2021年10月から文化報道部長。趣味マラソン、サッカー、登山。ラジオ大阪「藤川貴央のニュースでござる」出演。