「大会を取材したいなら、1月14日深夜にシンガポールを発つチャーター便に乗ってください。これ以外に入国の選択肢はありません」

 全豪オープンのメディア担当者から、そう明記されたEメールが届いたのは、1月11日の早朝だった。

 従来のスケジュールから3週間遅れて、2月8日の開幕が決まっていた全豪オープン。だが、選手を含む渡航者のスケジュールは、直前まで揺れ動いた。オーストラリアは厳しい入国制限を設けているため、政府とテニスオーストラリア(オーストラリアのテニス協会)の承認がなければ、飛行機に乗ることすらままならない。「関係者用にチャーター便を手配する」との連絡は年末に来ていたが、その最終決定が届いたのが、出発の3日前だったのだ。

 オーストラリアに入るには、事前に幾つかの事務手続きが求められた。健康状態の申告書に、2週間の隔離に伴う種々の同意書……中でも最もやっかいなのが、「入国の72時間以内に受けた、鼻咽腔PCR検査の陰性証明書」だ。日本国内でも、唾液でのPCR検査ができる場所は増えたが、鼻咽腔は少ない。ましてや、受けてから24時間以内に英語の陰性証明書を発行してくれるところとなると、本当に限られる。同じく全豪を取材予定の同業者らと情報を交換し、最終的に最も確実そうなのは、成田国際空港のPCRセンターだとの結論に至った。そこで大慌てで予約し、出発前日に検査を受けることに。ちなみに羽田空港のPCRセンターは、唾液検査のみである。

 無事に陰性証明を受け取り、成田からシンガポールに向かうべく14日の朝にチェックインカウンターに向かうと、そこにはラケットバッグを抱えた選手たちや、そのコーチらの姿があった。男子シングルス本戦に出場する西岡良仁に内山靖崇、女子の日比野菜緒に土居美咲……つまりは、日本からメルボルンに向かう全豪オープン関係者は、みな同じチャーター便に乗るのだった。

 直前まで渡航スケジュールが見えなかったのは選手も同様で、チャーター便の通達が届いたのはやはり、出発の3日前だったという。選手たちの多くはもともと、昨年末のオーストラリア入りを考えていた。だがオーストラリア政府の「年内は海外渡航者の入国を禁ずる」の方針により、それが叶わなかったという。

 シンガポールでのトランジットを経てメルボルン空港に着いてからは、意外なまでにスムーズに事は運ぶ。何よりホッとしたのは、フェイスガードに防護服の空港職員たちが、「メルボルンにようこそ!」と明るく出迎えてくれたことだ。

 事前提出の書類と照合し本人確認を済ませると、入国者はそれぞれの“隔離先”に向け、異なるシャトルバスに割り振られた。後に知ったことだが、選手たちは練習会場や練習パートナーまでが事前に固定されており、それらに応じてホテルも決まっていたという。審判や報道関係者の隔離先は、市の中心部からやや離れていたが、2週間出られないのだから気にすることではない。

 ホテルに着くと、本人確認の後にルームナンバーが言い渡され、そこからは一人で部屋まで向かうことに。部屋の扉は大きく開いており、入って扉を締めたら最後、2週間後まで出ることはかなわない。ベッドの上に置かれている2枚のカードキーが、なんとも皮肉だ。部屋に入ってから数時間経つと、ドアをノックする音がする。開けると、PCR検査員だった。隔離中の2週間、基本的に検査は毎日行なわれるという。

空港からホテルへ向かうシャトルバス【撮影=内田暁】”隔離先”のホテル入口【撮影=内田暁】

 隔離生活に入った初日の夜――。

 ロサンゼルスからメルボルン入りしたチャーター便の搭乗者に、コロナウイルス陽性者が出たとのニュースが流れた。同便に乗っていた人は、選手24名を含む全員が完全隔離となる。その中には、錦織圭もいた。

 陽性者の発覚は、その後も続く。翌日には、ドバイ、そしてドーハのチャーター便からも入国後の検査で陽性者が出て、数日後には、完全隔離に入った選手1名の陽性も判明した。
今回の全豪オープンのため、17のチャーター便に乗り入国した関係者は約1200人。その全員が入国の72時間前にPCR検査を受けているが、それでも最終的に11人の陽性者が出たのだった。

 2週間の隔離生活は、地元で“豪華な囚人”と呼ばれているそうだが、まさにそんな趣だ。食事は1日3回、ほぼ決まった時間帯に扉の前に置かれている。祝日などに、メッセージカードを添えてくれる心遣いが嬉しい。

 また、毎日必ず医療センターから、健康状態を確認する電話が掛かってくる。頭痛や咳はないか、何か気になることや、助けて欲しいことはあるか……? 繰り返される問いに、ただ「大丈夫」と答え続けるのもどうかと思い、一度「太陽を浴びないと滅入ってくるし、今日はあまり眠れなかった」と言うと、「睡眠障害などの病歴はある? 精神科医と話したい?」と深刻に捉えられ、やや焦ってしまった。後に聞いたところでは、同様の訴えをして日当たりの良い部屋に変えてもらった同業者もいたらしい。

ホテルの扉の前に届けられる食事【撮影=内田暁】

 なお、このような日々のルーティンは選手たちも基本的に一緒だが、選手は1日5時間の野外での練習・トレーニングが許可されていた。ただし、スケジュールは厳格に大会側に管理され、練習相手も2週間固定。外部との接触は、最低限に抑えられていたという。また、陽性者の乗ったチャーター便の同乗者は、選手であろうとも部屋から一歩も出ることは許されなかった。

 2週間の隔離が明けた後は、テニスオーストラリアが、次の宿泊先まで送ってくれる。渡航者の入国時期は3日間に及んでいるため、隔離が明けるタイミングもそれぞれ。そのため最後の隔離者が去り、建物内の消毒等が全て終わるまで、ホテルそのものが“レッドゾーン”とみなされるという。最も多くの関係者が宿泊していたグランドハイアットホテルは、1月30日をもってレッドゾーンが解除された。

 ところが、その4日後――。一つのニュ―スが、メルボルン市内を駆ける。

 2月3日の夜10時30分。ビクトリア州首相が緊急記者会見を開き、「グランドハイアットで隔離プログラムに従事していた従業員から、陽性者が見つかった」と発表したのだ。その従業員は、29日にPCR検査の陰性結果を得ていたが、2日に発熱等を発症。再度検査を受けたところ、翌3日に陽性結果が出たという。

 これに伴い、同ホテルに隔離滞在していた選手160人を含む大会関係者507人全員が、PCR検査を受けることに。陰性証明が出るまでは、再び隔離となった。そのため、4日に予定されていた全豪オープン前哨戦は全てキャンセル。さらには、従業者の過去3日間の行動履歴が詳細に公表され、「この時間帯にこのエリアに居た人は、検査を受けた上で自主隔離すること」との通達が、ソーシャルメディアやテレビでも繰り返し流される。同時に、3日の夜23時59分をもって、ビクトリア州での「屋内のマスク着用義務」「15人を超える個人的集会の禁止」などの規制強化も施行された。

 繰り返しになるが、今回見つかった陽性者は、たった一人だけである。それでも「28日連続、市内感染者ゼロ」を記録していたメルボルンにしてみれば、その衝撃は大きい。なお、再検査を受けた選手や関係者は全員陰性を確認。3日の緊急会見から48時間経った時点で、ビクトリア州に新たな陽性者は出ていないという。

 中断された前哨戦も、翌5日から観客も入れ再開された。全豪オープンは当初の予定通り、2月8日に開幕の予定だ。


内田暁

6年間の編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスとして活動し始める。2008年頃からテニスを中心に取材。その他にも科学や、アニメ、漫画など幅広いジャンルで執筆する。著書に『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)、『中高生のスポーツハローワーク』(学研プラス)など。