1992年に広島県広島市で生まれた有原は、2008年に広陵高校(広島)に入学している。190センチ近い体格を生かし、高校時代から大型投手として注目を集める存在だった。

 二年生の春からベンチ入りし、新チームになってからはエースになった。2010年春のセンバツに出場し、4試合に先発登板し、準決勝進出を果たした。その夏の甲子園では初戦の聖光学院(福島)に敗れたものの、ダイナミックなピッチングを見せた。

 高校卒業後に早稲田大学に進み、一年生の春季リーグ戦から神宮球場のマウンドに上がり、4年間で19勝を挙げた。2014年ドラフト会議で4球団から1位指名を受け、ファイターズに入団した。プロ1年目の2015年に8勝をマークして新人王に選ばれ、2016年に11勝、2017年に10勝、2019年には15勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得している。

 有原が広陵野球部に体験入部したのは、2007年の秋。野村祐輔(広島東洋カープ)、小林誠司(読売ジャイアンツ)が甲子園で準優勝したあとだった。入学前に中井哲之監督から「一人前の男になりたければ広陵に来い」と言われたと有原自身が『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか』(ぴあ)で語っている。

 有原が言う。
「もともと、やるからには強い高校でと思っていました。野村さんたちの学年が準優勝した直後だったので、『広陵で野球をやりたい』と考えました。野球をするために広陵に入ったつもりだったんですが、中井先生には『野球選手である前に人間が大事』と言われ、人間としての部分、生活面の指導を多く受けました。
100人を超える部員がいても、中井監督がすべての選手に同じように接することに驚きました。ひとりひとりと会話して、それぞれの細かいところまで見てくださいました。もちろん厳しいんですけど、そこに愛があって、優しさを感じました」

 数多くの選手をプロ野球に送り込んできた広陵だが、昔から積極的なスカウトをしないことで知られている。「広陵で野球をしたい」という選手を受け入れてきた。中井監督は実力のある選手だけを特別扱いすることはなく、控え選手の気持ちに寄り添う指導者だった。

野手が守ってやりたいと思うピッチャーになれ

 有原は甲子園に2回出場し、東京六大学でも華々しい成績を残し、プロ野球でもドラフト1位の期待に応え続けた。有原は広陵野球部OBがプロ野球で活躍する理由をこう分析する。

「広陵では、監督やコーチが前面に立つ感じではなく、選手同士がいろいろ言い合いながら練習します。レギュラーも控えも関係ありません。自分たちで指摘し合うのが独特の文化という感じで。ほかの選手に見られているので、三年生になっても気を抜くことができず、常に緊張感を持って集中することができました。
 全体練習は18時30分で終わって、夕食後に自主練習をします。そこで自分で考えながら練習をする習慣がついたことで、のちのち技術が伸びたんじゃないかと思います」

 中井は甲子園で30勝も挙げている名監督だが、人の意見を聞きたがるタイプだ。自分の考えを押しつけることなく、選手の意志を常に確認していた。

「中井先生は『おまえはどう思う?』と聞いてくれました。『こっちのほうがええと思うけど』と言いながら。だから、自分の意見を言いやすいし、やりやすかった。『自分はこう思います』と言える環境をつくってもらったので」

 しかし、有原にとって中井はいまだに怖い存在だ。シーズンオフに広陵のグラウンドに戻ったときには自然と背筋が伸びる。
中井は選手の気のゆるみを見逃さない。変化をすぐに見破り、異常に気づいた瞬間に自分から動く。だからこそ、選手は「怖い」と感じるのだろう。

「中井先生には数えきれないほどたくさんのことを言っていただきました。『甲子園に出ることが目標じゃない。立派な男になるためにいまがある』と。いまでも強烈に覚えているのは『野手が守ってやりたいと思うピッチャーになれ』という言葉ですね。このことは何度も何度も言われました。野手にそう思ってもらうためには、練習をしっかりやらなければならないし、生活面でも気をつけなければいけない」

 15歳のときと広陵で3年間を過ごしたあとでは何が変わったのか。

「まわりが見えるようになったと思います。気を遣えるようになりました。人間的にだいぶん大きくなったんじゃないでしょうか。高校の3年間があったから、早稲田大学に入ってからもすぐに順応できたと思っています」

プロ野球で着実に白星を積み重ねるようになってからも、中井から連絡が入ることがあったという。

「僕から報告の連絡を入れることもありますし、調子が悪いときには先生からいただきます。『いま、どうや?』とはよく聞かれますし、『気合い入れろ』と言われることもあります。ものすごくありがたいですね。広陵でのあの3年間がなければいまの僕はありません」

 新天地のレンジャーズで選んだ背番号は35。「まったくイメージのない新しい番号で、ここから再スタートというイメージでやりたかった」と語った有原は、原点で得た教訓を胸にメジャーリーグに挑む。


元永知宏

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年の時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。出版社勤務を経て、スポーツライターに。 著書に『期待はずれのドラフト1位』『敗北を力に!』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『補欠の力』(ぴあ)などがある。 愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(愛媛新聞社)の編集長をつとめている。