裏方の正体は、高校選手権準優勝の快足FW

 前身の松下電器に就職し、クラブ創設時から現在まで所属しているただ一人のフロントマンが伊藤氏だ。営業部長としてクラブのビジネス的な施策を練り、実行する立場だが、根っからのフットボーラー。名門・四日市中央工高出身の快足FWで、3年時には全国高校サッカー選手権の決勝に進み、満員の国立競技場でプレー、準優勝を経験した。そこから東海大に進学した。

「大学では数多くのタイトルを獲得しました。1学年下には岡中勇人(G大阪など)と山口素弘(横浜Fなど)、2学年下に礒貝洋光(G大阪など)、澤登正朗(清水)、加藤望(柏など)、飯島寿久(名古屋など)らがいました。Jリーガーに7、8人なったんちゃうかな」

 キラ星輝く逸材の中で、2、3年時に頚椎ヘルニア、腰椎分離と故障に見舞われ、ひざはガクガク。怪我ばかりで4年時は学生コーチに転身した。選手としてのキャリアを終えたが、ここが転機となる。当時新興勢力だった松下電器サッカー部が主務をできる人材を探していた。水口洋次監督(当時)に声をかけられた。

 「伊藤くん、スポーツはやるのもいいけど、裏方もいいぞ。いろんな人に出会える。毎年数千人の方に名刺を配る。松下電器の本社に勤めても、そんな仕事はない。いろんな人に会える。人脈ができてすごいぞ」。人と触れ合う部分に惹かれ、決断した。ただJリーグ入りを目指すような空気は、まだ社内になかった。

「当時の松下電器のサッカー部は地域で何かをやるとか、そういう考えはなかったですね。入社するときに、Jリーグ構想もなかった。観客は1500人ぐらいで、JリーグのJの字もありませんでした。松下電器は他にもスポーツクラブを持っていましたし、スポーツそのものが持つ社会的影響力、社員の士気高揚などについては考えていましたが、プロ化が前提にあったという感じではなかった」

 1990年4月に入社して、半年ぐらいすると、Jリーグ創設の機運が高まり、社内でも動きが本格化してきた。関西にはのちに覇権を争うライバル、セレッソ大阪の前身ヤンマーがあった。

「ヤンマーは歴史も長く、何回もタイトルを取っていて、伝統がありました。ただ、関西では大阪ガスとか田辺製薬など、これまであった実業団がサッカーから撤退していく時期でもありました。1996年に2002年の日韓W杯開催が決まったとき、日本はまだ1回もW杯に出場できていなかったので、大丈夫かと言う声がありました。松下電器もそんな状況に似ていました。ところが、入社した年の暮れに行われた天皇杯全日本サッカー選手権(1990年度の第70回大会)を勝ち上がり、元日に初優勝したんです。永島昭浩さん、和田昌裕さん、美濃部直彦さん、久高友雄さん、慶越雄二さん、ひげのミューレル、ウルグアイ代表のダリオ・ペレイラらが中心的なメンバーでした。天皇杯3連覇のかかった日産自動車に粘り強く戦い、PK戦でタイトル獲得出来て、これが大きかったですね」

開幕戦勝利で2年分のチケットが売れた

 1993年5月16日、万博記念競技場に浦和を迎え、記念すべき開幕戦を戦った。和田昌裕がゴールを決めて1-0で勝利。関西でのJリーグ人気が一気に爆発した。93、94年は平均観客数2万人を超え、Jリーグで2位になった。当時関西で唯一のJリーグクラブという強みもあった。

「初年度の開幕戦はチケットが売れすぎて通路までお客さんがいた。あの勝利で翌年分含め2年分のチケットが一気にさばけた感じでした。開幕した後の試合は若干チケットが残っていましたが、すべてなくなって、大ブームになった。すると苦しい日本リーグ時代に招待券でもいいから来てくださいとお願いしていた人や、見に行きたいといってくれていたサッカー少年や指導者にチケットが行き渡らなくなってしまった。逆にスポンサーさんや、いち早くチケット購入した初めての観客が増え、よくわからないけど人気、ブームだから、とりあえず来ているみたいなお客さんがスタジアムにいるというような感じになった。一番来てもらわないといけない地域のみなさん、これまで松下電器サッカー部を支えてもらった人が離れていってしまったんです」

「もうチケットなんかいらんわ、お前らなめとんか」

 いい時代はあっという間に過ぎ去っていった。指揮官に日本サッカー界最高のストライカー、釜本邦茂を監督に迎えたが、チームは低空飛行を続けた。チケットは売れなくなった。1995年1月に阪神大震災が起きた影響も大きかった。バブルはあっという間に弾けた。あの…チケットありますが…と関係者にあたっていくと…。

「すごく怒られました。今までのはなんやと。逆に地域とのつながりをサッカーバブルで切ってしまったんです。もういらんわ。お前らなめとんかと。今まで信頼してもらって、日本リーグ時代から松下電器サッカー部を支えてくれたみなさんを一瞬のバブルで切ってしまった。チケットはほっといても売れましたから。苦しくなってから頼んでも、心は離れてしまったままでした」

 冬の時代がすぐ近づいてきた。このタイミングでクラブも本腰を入れ始める。1997年京都府京田辺市にあった練習場、新大阪に構えていた事務所を吹田市の万博記念公園内に集約した。

「すべて15キロから20キロ離れていましたから。あっちからこっちにいくのが大変で、打ち合わせをしようにも、そっちが来い、いやお前が来いみたいな感じで社内でも大変でした。100メートル以内にスタジアムも、事務所も、クラブハウスもある。当然練習場は隣にある。この頃から、じゃあ地域って大事だよねという発想が少しずつ生まれてきました」

エムボマのスーパーゴールも「練習試合ですか」

 この1997年、カメルーン代表のFWエムボマが加わった。4月12日の開幕平塚戦(万博)では、鮮やかなリフティングで相手を置き去りにして、豪快な左足のボレーを叩き込んだ。ネットを突き破らんかの勢いで突き刺さったこのスーパーゴールは、Jリーグ史に残る名場面だが「映像に映ったバックスタンドにお客さんが少ないので、あれ練習試合ですか? と聞かれたことがありました」と振り返る。1998年、前年のジョホールバルの歓喜を経て、日本代表がフランスで行われたW杯に初めて出場した。G大阪からは選ばれた代表選手はいなかった。妻と現地に足を運んで歴史的な試合に遭遇したが、どこか空疎な思いも感じていた。

「セレッソ大阪からMF森島寛晃、FW西沢明訓が出ていましたが、ガンバ大阪からはいなかった。ワールドカップ・日本初戦のトゥールーズで国歌斉唱し、サッカー関係者の皆さんはみんな泣いている状況でした。高校(四中工)の後輩のDF中西永輔(市原など)、大学の後輩(東海大)のMF山口素弘、同学年のゴン中山(雅史。磐田)がスタメンにいる。感情移入できる状況なのに、でもうちの選手がおれへんみたいな。みんな盛り上がっているのになんか盛りに欠けた。これはいかんと思いました」



「ガンバ大阪勤続歴30年。裏方としてクラブを支え続ける男のこれまでとこれから(前編)」・<了>
「ガンバ大阪勤続歴30年。裏方としてクラブを支え続ける男のこれまでとこれから(中編)」へ続く


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伊藤 慎次(いとう・しんじ)
1967年(昭和42年)4月29日生まれ、54歳。三重県三重郡菰野町出身。菰野中からサッカーを始め、四日市中央工高では右ウイングで、2年次にインターハイ全国制覇(秋田)、3年時に全国高校サッカー選手権で決勝に進出、清水市商高に敗れ、準優勝。東海大では1年時に全国制覇し、4年次に学生コーチ。卒業後松下電器入社。ガンバ大阪では、広報、2002年日韓W杯では長居スタジアムでのプレスオフィサーを務める。2010年からJリーグ事務局に出向。2012年途中ガンバ大阪に戻り、ホームタウン担当などを歴任し、現在営業部部長。


大澤謙一郎

サンケイスポーツ文化報道部長(大阪)。1972年、京都市生まれ。アマチュア野球、ダイエー(現ソフトバンク)、阪神担当キャップなどを務め、1999年ダイエー日本一、2002年サッカー日韓W杯、2006年ワールド・ベースボール・クラシック(日本初優勝)、阪神タイガースなどを取材。2019−2021年まで運動部長。2021年10月から文化報道部長。趣味マラソン、サッカー、登山。ラジオ大阪「藤川貴央のニュースでござる」出演。