平昌五輪でスピードスケートの日本女子史上初の金メダルを獲得。注目を浴びる存在となったことで、過去に感じたことのないプレッシャーに悩まされた。“金メダリスト”の肩書きが重くのしかかり、氷上はもちろん普段の生活でも周囲の目が気になる日々。笑顔は減り、自身の殻に閉じこもるようになった。
「周りの目が気になってしまうようになったのが、五輪の翌年ぐらいから。小平奈緒を演じないといけないと感じていた」
転機は20年3月。前年の台風19号で深刻な被害を受けた長野市の災害ボランティアへの参加だった。募集を知り、自ら応募。1人で現場に駆け付けた。練習拠点を置くエムウェーブから千曲川の堤防決壊現場までは約6km。防塵ゴーグルとマスクを着けて、他のボランティアとの流れ作業で住宅の倉庫に置かれていた廃棄物を取り除いた。
これを機に練習の合間を縫ってボランティア活動を継続。被災した家の泥のかき出しや、リンゴ畑の整備なども経験した。現場では水に浸かり泥にまみれた98年長野五輪の新聞の切り抜きを目にしたこともある。休憩時間には被災者の話に耳を傾け、地元の方々から応援されていることを実感。自身が滑る意味を考える時間にもなった。
「災害ボランティアに参加したことで地域の人に身近に感じていただきながら競技ができる幸せを実感した。“金メダリストらしくしなきゃ”と考え込み、自分の周りに壁を作った時期もあったが、その壁を壊す時を過ごせた。地域の皆さんに支えられて、つながりを持つ中で自分自身を変えることができた」
心は晴れたが、肉体的な問題にも悩まされていた。平昌五輪の翌シーズン18-19年に右股関節に違和感を発症。その影響から19年2月の世界距離別選手権で2位に終わり、2年11カ月に渡り続いていた女子500mの国内外での連勝が37で止まった。
翌シーズンには股関節の違和感が右から左に移行した。20年11月の全日本選抜帯広大会で、同走した郷亜里砂(32=イヨテツク)に敗れてV逸。カーブでバランスを崩して左手をつくミスが響いた結果とはいえ、国内では15年12月の全日本スプリント以来、4年11ヵ月ぶりの黒星だった。
取り戻した本来の滑り
直後に大胆な行動に打って出る。11月下旬から12月中旬に氷上から離れ、股関節の違和感を改善するために陸上トレーニングに専念した。北京五輪プレシーズンの真っ直中にリンクに立たない異例の決断だったが「感覚の違いに気づいて、ここで着手しなければいけないと思った」と自らの感覚を信じた。
これが奏功する。同年末の全日本選手権は500mを本職としない高木美帆(27=日体大職)に敗れたが、年明けから徐々に本来の滑りを取り戻していく。2月の全日本選抜長野大会をシーズンのベストタイムで制すると、3月の長根ファイナルも優勝。コロナ禍で海外を転戦できないシーズンだったが「今の私にはチャンスだった。変化していく体と向き合う時間をとることができて、変化に耳を傾けて修正を重ねることができた」と振り返る。
心身共に整って迎えた今季は4月に始動した。6月には長野県菅平で17年連続で実施している標高差約900mを上る自転車の長距離走のタイムトライアルで、自己ベストを大幅更新。35歳となっても「体力的な衰えは感じていない。自分の体の中で起きていることは可能性に満ちている」と言い切り、注目の五輪シーズン開幕戦でも結果を出した。
今季は医療従事者への感謝を示す青と、白衣を意識した白のユニホームでレースに臨む。昨季は台風被害を受けた長野県のリンゴ農家を勇気づけるためにリンゴ模様の赤ユニホームを着用。ウエアにメッセージを持たせることにこだわりを持つ。
北京五輪日本代表は11~12月のW杯4大会と12月末の代表選考会で選考される。W杯で日本連盟が定めた基準(平均的に3位以内)を満たせば代表に内定。残りの選手は代表選考会の成績で選ぶ。12日にはポーランド・トマショフマゾウィエツキで開催されるW杯初戦が開幕。コロナ禍で、昨季国際大会への派遣を見送られた日本選手団にとって2年ぶりの外国勢との戦いとなる。
小平は「勝負にこだわるというより、生きることにこだわる。スポーツを通して生きることにこだわる姿勢を示したい。スポーツを通じて“自分の人生を豊かにしたい”“1度しかない人生をものにしたい”と思うと、勝敗は凄く小さなことに思えてくる。生きるということで本能が引き出されて目の前のことに必死になれる。積み上げていく過程を大切にしながらシーズンを走り抜けていきたい」と力を込める。金メダリストの肩書きに縛られた過去の姿はない。人生に更なる彩りを加えるため、再び黄金の輝きに挑戦する。