初めて日の丸をつけて戦った08年北京五輪でいきなり個人総合の銀メダルに輝くと、09年には世界選手権に初出場し、初優勝。無敗のまま迎えた12年ロンドン五輪では、多少のミスがあっても頂点に立つという圧倒的な実力を見せつけた。16年リオデジャネイロ五輪ではオレグ・ベルニャエフ(ウクライナ)との五輪体操史に残る激闘を制し、体操競技の魅力を最大限に示しながら個人総合連覇を達成。体操界の顔として世界中の選手やファンからリスペクトされてきた。

 これらの実績が示すように、競技成績をたどればリオ五輪までの期間が内村の競技人生のハイライトであることは間違いない。だが、彼が本当の偉大さを身につけたのは、むしろ、世界チャンピオンの座を降りることになった17年以降なのではないだろうか。

 17年春、内村は全日本個人総合選手権とNHK杯をあたりまえのように制し、7度目の世界選手権代表になった。だが、7連覇を目指して挑んだ本番では、競技人生初の「途中棄権」を余儀なくされることになる。個人総合予選の跳馬の演技で左足首を痛めたのだ。

 天国から地獄と言っても過言でないほどのいばらの道は、ここから始まった。優勝したことしかなかった世界選手権で個人総合の王座を失うと、翌18年は世界選手の直前合宿で右足首を痛め、種目を絞っての出場を余儀なくされた。19年には全日本個人総合選手権の平行棒の演技中に肩を痛め、ここでもまさかの途中棄権となり、世界選手権代表入りを逃した。

 鉄棒一本に絞るという決断を下して昨年の東京五輪の代表に入ったのは、さすが内村と言うべきことだったが、運命の神様は五輪本番で「落下」という最大の試練を課した。振り返れば、五輪2連覇など栄華を極め、キングの名をほしいままにしてきた内村にとって、17年からの5年間は言葉に出来ない苦しみの日々。しかも試練はどんどん過酷になっていっていた。

 けれども、結果的にはこの苦しみが内村の人としての幅を広げた。1月14日に開いた引退会見でのこと。17年から21年までの数年間に抱えていた思いについて聞かれると、内村は意外とも言うべき、実に誇らしげな表情を浮かべてこう言った。

「体操を突き詰めていくということを考えると、一番濃い5年間だったと思う。それまでは良いところばかりを知りすぎていました。挫折したり、落ちたりしたところから這い上がる力は、今後の自分にとって知っておかなければいけないことでした」

 内村は、目線の先に後輩選手たちの姿が見えているかのように、さらに言葉を継いだ。
「今後、五輪の金メダルを目指す選手たちに経験を伝えていく立場からすると、栄光も挫折も経験させてもらったのは貴重なことだったという気持ちが強いです」

 人としての幅が、縦軸方向にも横軸方向にも広がっていることを感じさせるコメントだった。

プロ転向による変化

 背景のひとつとしてあるのは16年末のプロ転向だ。リオ五輪後、体操の日本人選手として初のプロ選手となった内村は、「体操」という軸足をブレさせることなく体操中心の生活を貫く一方で、体操界以外の“トップランナー”と出会ったり話したり、交流を持ったりすることが増え、自身のものの見え方や考え方に変化が出たと感じるようになったと語っていた。

「プロになってから、体操を知らない人と話すことが増えたことで、ものの見え方がだいぶ変わってきました」と言い、体操を初めて見たという人と話したときに「試合進行を目で追うことが難しい」と聞かされ、ハッとした経験を教えてくれた。

「たとえば、体操の大会は男女同時進行でやることが多いのですが、それが見づらいということも僕は知らなかった。そういう意見を聞いてから、どうやったら体操がもっと分かりやすく伝わるか、どうやったら選手がもっと良い環境でできるか、以前よりも考えるようになりました」

 内村の意見も反映され、ここ数年は男女の日程を土日で分けることが増えるなど、変化が見えている。だが、もっと良くできる部分はあるはず。体操競技の魅力、体操選手の魅力をもっと引き出したいという思いが内村にはある。

 14日の引退会見では、若手選手に伝えたいことを聞かれ、「人間性が伴っていなければならない」との思いを熱弁した。
「後輩たちには体操だけ上手くてもダメだよということは伝えたい。僕は、若い時は競技だけ強ければいいと思ってやってきたのですが、結果を残していく中で、人間性が伴っていないと誰からも尊敬されないし、発言に重みがないということが分かったのです」

 長崎で育った幼少時、内村は体操の指導者である父から「体操選手である前に一人の人間としてきちんとしていないとダメだ」と教えを聞かされて育てられた。「その意味がようやく分かった」のだという。

 内村は会見で野球の大谷翔平やフィギュアスケートの羽生結弦の名前を挙げ、「人間としての考え方が素晴らしいなと思う。だからこそ国民の方々から支持されて、結果も伴っている。そういうアスリートが本物。体操選手には、高い人間性を持った一人の人間であってほしい」と言葉に力を込めていた。

 美しい体操や着地、6種目やってこそ体操だという美学など、「僕が示してきたことを受け継いで欲しいというのはある」としながら、「人間性というところに重きを置いてやっていってほしいということを伝えたい」と強調する。これぞ金言だ。

 このように、苦しんだ5年間で内村は人間としての幅を広げ、深みを増したと自身で感じているのだが、大事なことはまだある。この5年間にジュニアからシニアへと成長し、全日本個人総合選手権とNHK杯で内村に続く新チャンピオンとなった谷川翔、東京五輪代表へ駆け上がり、堂々と戦い抜いた橋本大輝や北園丈琉に、世界の頂点そのものである自身の姿を近い位置でじかに見せていたことだ。

 言葉では伝えきれない有形無形の多くのものをラストスパートとなった5年間に背中で見せ、体操界に財産として残した。それが内村だった。


矢内由美子

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。ワールドカップは02年日韓大会からカタール大会まで6大会連続取材中。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。