ビートたけしさんと一緒

――魚釣りはどうでしょう。

「魚釣りはしなくて、四ツ手網で獲ったの。小学校に上がる前に引っ越してから始めた。足立区の島根町というところです。ビートたけしさんの家が近所で、たけしさんは、梅島第一小学校の一年先輩だったんだよね。まあ、それはともかく、越した先のすぐ近くにはため池があったから、小学校の低学年のうちは、そこでしょっちゅう魚を獲っていた」

――食べ物はたくさん獲れましたか。

「なかなか難しいよ。一番獲れたのはクチボソ(モツゴ)とかフナで、これは食べてもあまり美味しくない。雷魚は食べられるね。親父が釣ってきて、揚げたやつを食わせてもらった。あとは鯉とナマズ。どっちも、小学生にはなかなか獲れるもんじゃない。何もないときは、白いご飯にきな粉をかけて食べていたね。きな粉餅みたいで美味しいんだ。(明石家)さんまさんも子どもの頃、よく食べてたって言ってたよ」

――記憶の上で、食糧事情が改善されてきたと感じたのはいつ頃でしょうか。

「何をバロメーターにするか次第だけど、たとえば牛肉なら、中学生になってから。小学生の頃は、鶏肉とごくたまに豚肉。ハレの日は、近所の肉屋さんでロースの豚カツを揚げてもらってね。
中学生になる頃からごくたまに牛丼、正月とかお祝いの席で牛鍋。年代でいうと、55年体制が成立して、しばらく経った1960年代の初頭ということになるね。たぶん、そのあたりから食料事情は急速に改善したんじゃないかな。だって、高校時代の食事のことはほとんど記憶にないから。記憶にないってことは、何かが食べられなくて困ったとか、羨ましかったとか、そういう感情の起伏がなかったわけだ。だから、その頃から何でも食べられたのだと思う」

――高校生までの食事は、ある意味では「親が決めたメニュー/親が提供してくれる料理」ですが、大学生からは「自分で選んだ食べもの」になろうかと思います。

「大学に入ったら、もう食生活はめちゃくちゃだった。1日3食なんて、まったく無し。入学した次の年くらいから大学は学園紛争で、授業もないし、虫採りと麻雀ばっかりだったね。だから、昼は虫採りで徹夜で麻雀して、煙草も毎日80本ぐらい吸って、友達の下宿で朝から昼過ぎまで寝て、あれ、飯なんかいつ食ったんだろう? みたいな毎日だった。体重は、47キロぐらいしかなかった」

養老孟司さんは酒を止めて、煙草をとった

――ずいぶん痩せていますね。

「でも、足腰はしっかり鍛えていたよ。僕は大学2年生までに、日本産の蝶をほとんど全部、自力で採集したんだ。北海道から沖縄まで遠征してね。そのあと、徹夜で麻雀ばかりやっていたのは、蝶をぜんぶ採っちゃって、やることがなくなっちゃったからだよ。たまにはデモにも行ったけどね」

――身長は?

「1メートル66センチで、47キロ、ズボンのウエストは67センチ。ずっとそうだったけど、25歳で結婚したら変わった。女房が食事を作ってくれるから、すぐに50キロに増えた」

――結婚後は、煙草もやめましたか。

「やめない、やめない。だって好きなんだ」

――じゃあ、今でも。

「いや、33歳でやめた。好きだったんだけど、咳が止まらなくなったから。それでやめた。酒は毎日飲むよ。だから、どっちかなんだろうな。友人の養老孟司は酒をやめて、煙草をとった。私見では、両方大好きな人は、長生きは難しいかもしれないね」

生物学者・池田清彦が語る〈食の冒険〉Vol.3に続く


【池田清彦/略歴】
 生物学者。理学博士。1947年、東京に生まれる。東京教育大学・理学部生物学科卒。東京都立大学・大学院・理学研究科博士課程・生物学専攻・単位取得満期退学。山梨大学・教育人間科学部教授、早稲田大学・国際教養学部教授を経て、現在、山梨大学名誉教授、早稲田大学名誉教授、TAKAO 599 MUSEUM名誉館長。フジテレビ系「ホンマでっか⁉TV」に出演するなどテレビ、新聞、雑誌で活躍。「まぐまぐ」でメルマガ「池田清彦のやせ我慢日記」、YouTubeとVoicyで「池田清彦の森羅万象」を配信中。単行本の最新刊『食糧危機という真っ赤な嘘』(ビジネス社)が話題を呼んでいる。

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VictorySportsNews編集部