積み重ねられた「異端児」の烙印

 白鵬は、その現役時代から「異端児」と評されることが少なくない。史上最多優勝回数を誇り、横綱として圧倒的な強さを見せつけた一方で、土俵上での立ち居振る舞いや、相撲の伝統的な美意識に反するとされる言動が、たびたび議論の的となった。例えば、勝利後のガッツポーズや、張り手やかち上げを多用する相撲ぶりは、賛否両論を巻き起こした。横綱という最高位の力士には、単なる強さのみならず、品格や風格が求められるものであり、白鵬の土俵における振る舞いは、時にその品格を損なうものとして、批判の対象とされた。

 さらに、優勝インタビューの最後に観客とともに三本締めをする、敗れた直後に取組をした力士には権利がない「物言い」を行い土俵にもどらないなどの問題行動で3度の処分を受けた。

 彼の周囲で発生した暴力事件への関与も、その評価を大きく左右した。元横綱日馬富士による貴ノ岩への暴行事件。白鵬はその場に居合わせながら、事態を収拾するための適切な対応をとらなかったとして、大きな批判に晒された。

 当時の白鵬の圧倒的な地位と求心力ゆえか、必ずしも厳格な処分が下されてこなかったという見方もできる。あたかも「大横綱」という錦の御旗のもと、問題が矮小化され、見過ごされてきたかのような印象は拭えない。

 親方となってからも、その問題は続き、今回の件の根元になった宮城野部屋で発生した弟子の暴力事件は、相撲界の根深い問題を改めて浮き彫りにした。そして、その事実をあろうことか隠蔽しようとした一連の行動は、協会からの不信感を決定的なものに。弟子への指導不足に加え、自らの立場を利用して事実を矮小化しようとしたその責任は極めて重いと言わざるを得えない。相撲協会は、過去の教訓から暴力問題の根絶に努めており、隠蔽行為は最も忌み嫌われる行為の中、結果として、相撲協会からの処分はさらに重いものとなり、今回の退職という選択に至ったのは、まさに彼自身が招いた結果と捉えることができる。一連の行動は、彼が相撲界の秩序や規律よりも、自身の保身や部屋の体面を優先したと受け取られてもやむを得ない状況を呈している。ちなみに他の部屋での不祥事より処分が厳しいなどとの声もあるが、隠蔽したことが大きな問題であり、隠蔽がなかったらここまでの処分は下されない。

「白鵬支持」の声の不可解

 しかし、これほどまでに問題が顕在化しているにもかかわらず、世間には依然として白鵬を支持する声が少なくない。この現象は一体どのような背景に起因するのか。その背景には、相撲界に対する根拠のない偏見や、情報不足に起因する誤解が潜んでいるように思料される。一つの要因として考えられるのは、彼の現役時代の「強さ」に対する純粋なリスペクトがあると思われる。史上最多優勝という偉業は、相撲の歴史に深く刻まれ、今後破られることはないかもしれない金字塔。その圧倒的な実力と、土俵での存在感に魅了された人々は、彼の人間性や問題行動を度外視して、アスリートとしての彼を高く評価しているのかもしれない。しかし、アスリートとしての才能と、人間としての倫理観は別物であり、その両面を評価する視点が欠けていると言わざるを得ない。

 また、「相撲協会は閉鎖的だ」「改革が進んでいない」といった、根拠なく相撲協会を批判する層が、白鵬の今回の退職を協会の「不当な弾圧」と解釈している可能性も否定できない。彼らは、協会が古くからの慣習に囚われ、新しい風を嫌っているというステレオタイプなイメージに固執し、白鵬の行動を「改革者」の試みと捉えているのかもしれない。しかし、その主張には具体的な根拠や分析が欠けており、感情的な反発や、情報不足による誤解に基づいている。今回の白鵬の件は、協会のガバナンスが機能し、問題に対して厳正な処分を下した結果と見るべきだ。

 むしろ、協会が自浄作用を発揮し、改革への意思を示したと捉えることも可能であり、根拠なく批判を繰り返す人々は、相撲界の健全な発展を阻害する要因となりかねない。

「白鵬杯」が象徴する商業主義と格式の軽視

 白鵬の名を冠した少年相撲大会「白鵬杯」もまた、彼の功罪を論じる上で看過できない存在。この大会は、白鵬自身が主催しているかのような印象を与えるものの、実際には資金を提供するスポンサーが存在している。白鵬自身は、その「顔」として存在し、その「顔」が持つ影響力は甚大。その名が商業的な目的で利用されているという批判は免れ得ないものだ。

 そもそも、「白鵬杯」と自らの名前を冠した大会を主催すること自体が、相撲の伝統的な格式や美意識に反するという意見も根強く存在する。相撲は、単なるスポーツではなく、神事から発展した武道であり、その根底には厳かな精神性が流れている。土俵は神聖な場所であり、力士は神に捧げる奉納相撲を執り行う存在。そのような相撲において、個人の名前を前面に出して大会を主催することは、その神聖な空間に個人の名誉欲や商業主義を持ち込む行為と見なされても仕方がない。相撲協会は、その格式と伝統を守るという重責を担っており、たとえ大横綱であっても、その精神に反する行為に対しては、毅然とした態度で臨むべきだ。

 そして今、彼が退職後に主催に関わると報道されている「SUMO」の世界大会についても、更なる懸念を抱かざるを得えない。相撲は、その長い歴史の中で培われてきた神事としての側面と、武道としての精神性を不可分に有している。これを単なる「スポーツ(SUMO)」として切り取り、特に神道の概念や背景を理解していない海外の人々に向けて発信することは、相撲の本質を著しく歪めて伝えかねない。「SUMO」という安易な呼称を用いること自体、相撲の持つ深遠な文化的価値を矮小化するものであり、神事をエンターテイメントとして消費させようとする意図すら感じられる。このような活動は、白鵬氏が現役時代から親方時代に至るまで、時に日本の相撲道や伝統的価値観から外れたと指摘される行動を繰り返してきたことの延長線上にあるのではないか。彼が相撲の本質を真に理解しているのか、甚だ疑問だ。

 「白鵬杯」は、確かに少年相撲の普及に貢献している側面はある。多くの少年力士が相撲に触れる機会を得られることは、その活動の意義として評価できる。しかし、その裏にある動機や、相撲界全体に与える影響を考慮すると、手放しで称賛できるものではない。相撲は、個人の名誉や利益のために存在するものではなく、文化として、そして競技として、次世代へと受け継がれていくべきもの。個人の名を冠した大会が乱立することは、相撲本来の価値を希薄化させ、商業的な側面ばかりが強調される結果を招きかねない。

八角理事長の功績と協会の自浄作用

 今回の白鵬の退職は、単に一人の力士、一人の親方が相撲界を去るという以上の意味を持つ。それは、相撲界が長年抱えてきた、規律の問題、伝統と変化の間の葛藤、そしてガバナンスのあり方を改めて問い直す機会となった。

 この数年、相撲界は様々な危機に直面してきた。とりわけ、2017年の貴ノ岩が横綱から暴力を受け入院し九州場所を休場した事件に端を発した、貴乃花氏の奇行や職務放棄とも思える行動、さらに貴乃花部屋で起きた複数の暴力事件においても、協会の信頼を大きく揺るがすものだった。

 このような相撲界の危機的状況において、現在の八角理事長(元横綱北勝海)が果たしてきた役割は、高く評価されるべきだ。八角理事長は、協会内の不正を許さず、透明性の高い組織運営を推進することで、相撲界の信頼回復に尽力してきた。

 そして、今回の一連の不祥事に対しても、八角理事長は極めて厳正な処分を下した。現役時代からの土俵上の問題行動、暴力事件への関与、そして親方としての隠蔽工作。これらの積み重ねに対し、協会は毅然とした態度で臨み、最終的に白鵬を相撲界から退場させるという重い決断を下した。これは、相撲協会が自浄作用を発揮し、規律を重んじる姿勢を内外に示した証と言える。八角理事長のリーダーシップのもと、協会は過去の教訓から学び、暴力問題の根絶に努め、隠蔽体質を打破しようと真摯に取り組んでいることはわかる。このような厳格な姿勢こそが、相撲界の格式と品格を守り、未来へと繋いでいくために不可欠なものであろう。

 ファンも、根拠のない感情論や、一面的な情報に惑わされることなく、相撲界の現状を冷静に見つめる必要がある。大横綱の功績を称えることは重要ではあるが、同時にその陰に隠された問題点にも目を向け、相撲界の健全な発展を願うならば、厳しい意見も時に必要だ。相撲の伝統と品格を守り、次世代へと繋いでいくためには、私たち一人ひとりが相撲界に対して真剣に向き合い、その未来を共に考えていく姿勢が求められる。

 白鵬という稀代の才能が相撲界を去った今、その功績と罪、そして彼が相撲界に残した課題を真摯に受け止め、より良い未来を築いていくための議論が深まることを期待する。相撲が、単なる競技としてだけでなく、日本の文化として、その格式と美意識を保ちながら、未来へと継承されていくことを願ってやまない。


VictorySportsNews編集部