文=いとうやまね

牧師の説教から伝説のライブハウスへ。SP『Let's Go Crazy!』/Prince

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 演技冒頭に流れるハモンドオルガンは、アメリカのおもに黒人居住地区にある小さな教会に設置されている。高価なパイプオルガンの代わりに開発されたもので、かつてゴスペルとともに急激に普及した。プリンスも生まれ育ったミネアポリスで子供の時分から耳にしてきた音色に違いない。ごく身近な楽器として。そして牧師の説教のBGMとして。神々しい調べが場内に響き渡ると、羽生結弦は顔を上げ視線をそのずっと先に向ける。中央最前列の“参列者”に一礼すると、演技は徐々にスピードを増していく。

「親愛なる皆さん。今日ここに我々が集うのは、『人生』という困難をともに乗り越えるためです」

 これは、結婚式や葬儀で聞かれるおなじみのフレーズである。おめでたい席では、後半部分が「人生を祝う(celebrate)ため」などのことばに代わる。リバーブの効いたプリンスの語り口は、牧師そのものだ。人生は果てしなく長いがその先に次なる世界(天国)が待つ、と続ける。鍵盤に指や手のひらを滑らせて弾く、いわゆるグリッサンドが気分を高揚させる。

「次なる世界には終わることのない幸福感が溢れ……」
 羽生が宙に跳ぶ。
「太陽は昼も夜も輝き続ける」

 次の瞬間、タイトなドラムが激しく突き上げてくる。そこにはもう牧師はいない。説教しているのはプリンス本人だ。「医者に聞くんだったら、あとどれくらい生きられるかじゃなくて、どれくらい正気でいられるかだぜ、ベイビー。この世はあの世よりずっとハードだから自力でなんとかするんだ!」。重く歪ませたギターのリフに、自然と身体が揺れる。いよいよミネアポリス・サウンドの始まりである。会場全体が、伝説のナイトクラブ『ファースト・アベニュー』になったかのようだ。

And if the de-elevator tries 2 bring u down. Go crazy(Punch a higher floor!)
「もしもエレベーターが君を下の階に引き降ろそうとしたなら、狂ったように上の階のボタンを叩くんだ!」

 ここでいうde-elevator(the elevatorではない)とは、サタン(悪魔)の比喩だという。elevate(上昇する)を接頭辞deで否定する、すなわち「上昇できないもの」「落ちていくもの」を意味するプリンスの造語である。羽生は両ひと差し指を頭に向けて“クレイジー”のジェスチャーをする。60年代を彷彿とさせるサイケなマーブル柄のベストに、プリンスの代名詞ともいえる紫色のシャツとパンツ。これは、生前本人が身に着けていた衣装へのオマージュである。どうやらプリンスが憑依したようだ。

神か悪魔か。時空を超えたツワモノふたりの競演

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 “何か吹っ切れるようなクレイジーな曲”というコンセプトの元に選ばれた今プログラムは、昨年この世を去ったプリンスの『Let's Go Crazy』だ。1984年の自伝的映画『パープル・レイン』のオープニングに使われている重要な曲である。映画のストーリーは極めてシンプルだ。問題家庭に育った才能溢れる主人公が、バンド仲間や恋人、夢や現実の中で、やがてスターへの一歩を踏み出すという青春物語である。脚本が素晴らしく、主人公のナイーヴさと暴力性、愛情を欲する姿と不器用さ、真実と嘘、神を求めながらも冒涜する、その両面性が鮮やかに描かれている。

 “自伝的”とうたっているのは、実在する登場人物の立ち位置やエピソードをある程度変えているからだ。アルバート・マグノーリ監督がうまいことを言っている。「架空のストーリーに合わせてキャラクターを誇張したり、あるいは抑えたりしたが、奇妙なことにそれは彼らの現実でもある」。フィギュアスケートもまた、競技であると同時に、演目は競技者の「史実」である。羽生は“その時間”自身である以上にロミオであり、安倍晴明であり、場合によっては神であり、悪魔であり、プリンスなのだ。

“Let's get nuts”ロックなジェスチャーがファンを熱狂させる

「今の境遇が嫌だって?周りを見渡してごらんよ。友達くらいいるだろ」

 二本のギターが互いを追いかけるように並走するリフは、羽生のキレを一層引き立たせる。「俺なんて昔の彼女に友達として電話したら、受話器をとったはいいけど、すぐに床に落とされたよ。聞こえてきたのは、Ah-s ah-s(喘ぎ声さ!)」。たびたびセクシーかつ露骨な表現で世間を騒がせたプリンスだが、羽生との共演は想像していなかった。

 この楽曲には様々なジェスチャーが登場し、歌詞と振付がシンクロするので面白い。前述の部分では “電話”ポーズが確認できるはずだ。演技中に何度となく天を指さすのは、「落ちるな! アゲていけ! 楽しめ!」といった感じだろう。直後のLet's get nuts(イカレちまおうぜ)に変形ランジをはめ込んでいるのは、振付師ジェフリー・バトルののチャーミングなところだ。

 人差し指と小指を立てる“コルナ”サインに気が付かれただろうか。これは「Rock on!」の意味だが、もともとサタンを表すサインから生まれたものだ。プリンスの映画やライブでもたびたび登場する。連続シットスピンの後には、やはりロッカーが大好きな“666”のジェスチャーもあるので、これにも注目してみよう。 

ギターソロの音がユヅに共鳴する

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 ギターソロが始まると、見せ場のステップがたっぷりと待っている。バトルはシーズン前に「ギターソロの音がユヅに共鳴して感じられた」と言っていた。ギター二本によるオクターブのユニゾンはプリンスと羽生、あるいは羽生とバトルなのかもしれない。鳴きのギターソロでは、ギタリストのいわゆる〝のけ反りポーズ〟が表現され、歓声がひときわ大きくなる。ワウをめいっぱい効かせた速弾きに、高速スピンが応える。「Take me away!」終わった後の疲労感を伴う余韻が心地よい。なんて楽しいプログラムだろうか。アンコールをしたくなる雰囲気である。

 このプログラム曲で一か所、謎めいたところがある。よく話題になる箇所だ。「パープルバナナを探しに行こう。俺ら(の死体)がトラックに積み込まれるまでに」。“紫のバナナ”の解釈は多数あるが、いまだ定説はない。ここは永遠に謎のまま、プリンスは次なる世界へ旅立ってしまった。おそらく、『死んじゃう前にうんと楽しめよ』ということなのだろう。

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いとうやまね

インターブランド、他でクリエイティブ・ディレクターとしてCI、VI開発に携わる。後に、コピーライターに転向。著書は『氷上秘話 フィギュアスケート楽曲・プログラムの知られざる世界』『フットボールde国歌大合唱!』(東邦出版)『プロフットボーラーの家族の肖像』(カンゼン)他、がある。サッカー専門TV、実況中継のリサーチャーとしても活動。