(構成=大塚一樹)

それにしても高梨沙羅はなぜパッタリと勝てなくなったのか?

昨シーズンは4回目のW杯シーズン総合優勝を成し遂げた高梨沙羅選手ですが、今シーズンはワールドカップ未勝利。マレン・ルンビ(ノルウェー)、カタリナ・アルトハウス(ドイツ)といった同世代のライバルに、ときに大差をつけられて表彰台を逃すシーンも目立ちました。高梨選手はなぜ勝てなくなったのでしょう? オリンピックシーズンのプレッシャーやメンタルなどさまざまな要素が関係しているのは間違いありませんが、この記事では主に身体操作に絞ってできるだけ客観的に高梨選手のジャンプについて検証してみようと思います。

「映像で見させていただいた感じでは、たしかに昨季と今季のジャンプに違いはあります。でも、『なぜ勝てなくなったのか?』という直接的な答えは、ライバル選手の技術が向上したという外的要因の方が大きいと思います」

さまざまな競技の一流アスリートのプレーを身体操作という観点で分析してきた中根氏は、今季の高梨選手に誰もが抱く「どうして急に勝てなくなったの?」という疑問にこう答えます。中根氏には今季、結果が出ていた昨季、昨季以前の高梨選手のジャンプ動作と、高梨選手に立ちはだかるルンビ、アルトハウス選手のジャンプを見てもらいました。もちろん、スキージャンプに必要な動きや、物理学、力学などの論文も下調べしてもらい、理学療法士ならではの科学的な目で、スキージャンプを解析してもらっています。

技術の差を埋められた高梨沙羅 苦戦は物理学的に当然?

©Getty Images

「映像で見た範囲では『高梨選手が悪くなった』ようには見えないんですよね。スキージャンプでの身体の動きは、助走姿勢から踏み切りのテイクオフ、空中姿勢、着地時のテレマークに分けられると思いますが、それぞれの工夫で高梨選手に勝る選手はいません」

身長152㎝、体重45㎏と小柄な高梨選手は、スピードを稼ぐための低い助走姿勢とその低い姿勢から生まれるエネルギーを効率よく飛距離につなげる踏み切りの技術で世界の頂点に登り詰めた選手です。ワールドカップで今季2勝を挙げている身長157㎝のアルトハウス選手は「重心を低くしてスピードでジャンプする」高梨選手のスタイルをお手本にしていると公言しています。

「高梨選手の身体の使い方で、まず目に付くのは助走時の低い姿勢ですよね。肩とヒザが接触するくらい股関節を深く曲げ、スキー板と体幹が平行になる状態を保っています。助走スピードを左右するのは、スキー板と地面に生じる摩擦力です。当然体重が重い方が有利であり、一見関係ないと思われる身長も『体重指数(BMI:体重÷身長÷身長)』で使用できる板の長さが決まるため、高身長で体重のある選手が理論上は有利になっています」

こうした不利があるにもかかわらず、高梨選手が結果を出し続けられたのは、前述の股関節から身体を折り曲げるようにして低く重心を保つという独特のフォームだったのです。

「重心位置を低く保つことによって空気抵抗を少なくし、スキー板と地面との摩擦力を最大限に高める助走ですね。助走動作の最中にあれだけ股関節を深く曲げられるのは、厳しいトレーニングの賜物だろうと予想しますが、高梨選手の助走姿勢にはもう一つ大きな特徴があります。注目してほしいのは足首です。高梨選手は足首が異常に柔らかいんです。足の甲を上げる角度、専門的には“足関節背屈角度”と言いますが、一般的には20°程度しか曲がりません。高梨選手の助走中の足首は25°以上曲がっているように見えます。独特と言って良い高梨選手のフォームは、この足首の柔らかさを前提に成り立っています。同じような背格好のアルトハウス選手も低い姿勢を保ってスピードを出すタイプのフォームですが、足首の柔軟性は低く、高梨選手ほど低重心をキープできていません」

依然として世界一の技術を持つ高梨のすごさ

©Getty Images

中根氏は助走面では高梨選手の技術がいまだに世界一だと評します。
「低重心を保つ技術に関してはルンビ選手やアルトハウス選手を圧倒しています。さらに高梨選手の助走姿勢は、低重心の姿勢をさらにスピードに結びつける特徴があります。これは、テレビでも確認できると思うので注目して欲しいのですが、スキーのジャンプ台のアプローチには、選手たちが左右のスキー板を走らせる溝のようなものがありますよね。あれはシュプールと言って、板の幅より広めに作られています。シュプールの間でスキー板はある程度“ブレる”のが普通ですが、高梨選手のスキー板はスタートから踏み切りまでほぼブレません。これは、身体の荷重がスキー板に対して垂直になるように足裏を全体接地させているためで、高梨選手は高速でアプローチを滑り降りながら前後・左右に重心がブレないようにしているのです。足裏の母趾球、小趾球、踵の3点に平均的に荷重を分散しています。これを実現するためには、脛骨(けいこつ)、つまりスネの下端にある内くるぶしの真下に重心を乗せ続ける必要があります。たとえば、足裏の前側に荷重がかかりすぎてしまうとスキー板、地面にかかる摩擦力は低下してしまいます。高梨選手のように足裏全体に平均的に荷重が分散された状態を維持できてはじめて、低重心のメリットを最大限活かしつつ助走スピードを得ることができるのです」

低い重心と足裏全体の接地を保ちながら不利とされている体格をカバーしてスピードを出している高梨選手。では今季はなぜ、同じ背格好のライバル、アルトハウス選手の後塵を拝しているのでしょう?

「これからお話しする『高梨選手の問題』も大きな要素ですが、高梨選手とアルトハウス選手に限って言えば、7㎏の体重差、5㎝の身長差が大きいと考えます。今季のアルトハウス選手と高梨選手の助走スピードのデータを見ても、体重45kgの高梨選手は約92.8km/hなのに対し、52kgのアルトハウス選手は約94.2km/hと、1km/h以上の差がついています。一般に1km/h速いと飛距離は10m伸びると言われていますから、物理の原則を技術で詰めた高梨選手に対して、身体スペック上、絶対値の高いアルトハウス選手が高梨選手のフォームエッセンスを取り入れた結果と見るのが妥当ではないでしょうか」

ルンビ選手のノルウェー、アルトハウス選手のドイツともに、コーチ陣が「高梨沙羅はなぜ強いのか?」を研究していることが伝えられていますが、中根氏の見立てはこうしたスキー女子ジャンプの流れからも納得の行くものです。

鍵を握る「踏み切りからテイクオフ完了」までの時間

「ここが最大の“問題点”ですよね。悩ましいところではあります」
中根氏が今回の記事の核心部分として示したのは、高梨選手の踏み切り、テイクオフのパートでした。
「助走スピードで得たエネルギーをうまく空中に転換できれば、あとは高梨選手の“軽さ”が武器になります。これが最大の武器だったわけですが、身体の使い方を見る限りこの部分に“問題”が生じているように見えます。しかも今のジャンプ、踏み切りの『ここが悪い』『ここが非効率』という単純なものではありません」

中根氏は、高梨選手の抱える問題点は、「この部分」と簡単に指摘できるものではないと言います。その真意を知るために、まずは高梨選手の最大の武器である踏み切りからテイクオフ、空中へとつながる一連の動作を見ていきましょう。

「注目して欲しいのは腕の位置と手のひらの向きです。腕と手の使い方は選手によってさまざまですが、高梨選手は、助走時から両腕を内側にねじり、手のひらを背中側に向けています。この腕、手の向きによって広背筋という筋肉が収縮しやすくなります。広背筋とは筋肉の中で唯一、腕と足をつなぐ働きを担っていて、広背筋が収縮することで、骨盤の前傾いわゆる腰を前方へ回転させやすいため、踏み切り時により早く体幹を起こせるメリットがあります。この素早い動作により空気抵抗を抑えつつ、いち早く空中姿勢に移行し、空中での身体のブレを抑えて安定化しています。さらに高梨選手は、内くるぶしの真下に重心を乗せたままスキー板に対して垂直に踏み切ります。この動作により床反力によるエネルギーを最大限利用しています」

たしかに高梨選手は、踏み切りからテイクオフ完了までのスピードがもっとも速く、そのスムーズさが女王たる所以と言われています。
中根氏によれば、最近では、ルンビ選手やアルトハウス選手も腕を内側にねじる動きを取り入れているとのこと。これによって、踏み切りからテイクオフ完了の時間が短縮され、高梨選手のアドバンテージがなくなっているというのです。

「あるテレビ番組での検証データですが、高梨選手の踏み切りからテイクオフを完了し、空中姿勢に移行するまでの時間は0.57秒。これに対し、アルトハウス選手やルンビ選手は0.60秒。昨シーズンの両選手は0.9秒から1秒かかっていたので、その差がはっきりと縮まってきています」

技術で差を詰められ、身長、体重、体格でディスアドバンテージを背負う高梨選手。特に身長171㎝のルンビ選手は長いスキー板を使用できる分、風を受ける面積も広く、飛型が早く決まれば決まるほど浮力を得られ、他を圧倒するような飛距離を得ることができるのです。
中根氏が「単純な問題ではない」と指摘するのは、この結果が乱した高梨選手の「タイミング」にありました。

ストロングポイントのはずの低い助走姿勢が諸刃の剣に

「重要なポイントはテイクオフ時の股関節伸展、いわゆる太ももを前から後ろに蹴り上げる動きです。ここに高梨選手の“問題点”になり得る部分があります。助走から股関節を深く曲げて低重心をキープするのが高梨選手の特徴ですが、この重心の低さがテイクオフの際に空中姿勢に入るまでの遅れやタイミングのずれにつながっているのです。今シーズンの高梨選手の踏み切りからテイクオフ完了までを見ていると、『タイミングが遅れている』『身体を起こすのに時間がかかっている』と感じます。テイクオフのタイミングが遅れ、踏み切り後にスキー板と体幹の角度が開くという現象も見られます。空中姿勢に入るまでに時間がかかることで空気抵抗を受けやすく、蹴り出し、伸び上がり時に力みが見られます。これが飛距離の低下に影響してしまっていると考えられます」

高梨選手も「助走路で体への落とし込みがしっくりきません。そこに意識が取られて、踏み切りのタイミングが合わなくなっています」と反省の弁を述べていますが、中根氏は「助走時の落とし込みがアドバンテージにならない→もっと深く股関節を曲げて低重心に→伸び上がりでの時間ロス→タイミングがずれる、というループにはまっているのでは?」と指摘します。

より早い助走を得るために重心をさらに低くし、その結果、最大の武器である「踏み切りからテイクオフ完了までの最速動作」に不調を来してしまった高梨選手。平昌で念願の金メダルを獲得するためにはどんなことが必要なのでしょう?

「いいジャンプかどうかは、踏み切りでほぼわかると思います。空中姿勢も含め、ジャンプのタイプもたくさんありますが、高梨選手はかつての名ジャンパー、金メダリストの船木和喜さんのようなV字ジャンプを指向してもいいかもしれません。同じく金メダリストの原田真彦さんは真上に飛び上がるようなジャンプで飛距離を出していますが、船木さんは低い姿勢でそのまま飛び出していくタイプでした。真上への伸び上がりが少ない分、物理的に落下するタイミングも早いですが、テイクオフ直後に素早く“V字”の空中姿勢を作ることで揚力、いわゆる進行方向に対して物体を垂直に持ち上げようとする力を最大限利用し、飛距離を伸ばしていました。高梨選手もテイクオフでの伸び上がりによる力みを抑え、早い段階でスキー板と体幹にできる上体角を小さくして揚力を最大限に得られればメダル圏内に加わってくるはずです」

高梨沙羅選手の二度目のオリンピック、決戦の期日は12日夜。決戦の地・平昌では夜間の試合、悪天候、強風など予期せぬコンディションが待ち受けている可能性が高いようですが、そこはこれまでのキャリアを通じて「勝ち続けてきた」経験を持つ高梨選手に一日の長があります。踏み切りからテイクオフに移行する動作がスムーズに行えるのか? 距離計測の終点である着地に目が行きがちなスキージャンプですが、今大会の高梨選手の「踏み切り」に要注目です。

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中根正登(なかね まさと)

理学療法士(Physio Therapist)。中根まさとメディカル整体院(NMB)院長。医療・介護・スポーツ・美容・治療家業界にて年間1,500人以上の指導実績あり。症例件数は延べ4万5,000件強。トリガーポイント・関節系テクニック・東洋医学などを組み合わせ、オスグッド病をはじめとしたさまざまなスポーツ障害に対する施術を得意とする。本田圭佑、宇佐美貴史、香川真司、ハメス・ロドリゲス、ポール・ポグバ、錦織圭、清宮幸太郎ら一流アスリートをフィジカル的側面から分析し、専門誌やWEB媒体に寄稿している。