藤澤五月、カーリングの求道者が残した宿題とは アメリカ戦で見えた手応えと課題
14日、初戦アメリカ戦を10対5で破り、好スタートを切ったカーリング女子日本代表、ロコ・ソラーレ。そのスキップを務める藤澤五月は、平昌オリンピックに向けてある宿題を残していた。初戦で見せたその回答の一端と、課題。その先には、予選ラウンド突破が見えてくるはずだ――。(文=竹田聡一郎)
“動”の知那美、“静”の夕梨花。正反対の性格に生まれた姉妹
吉田家は三姉妹だ。
次女・知那美、三女・夕梨花の上に、長女の菜津季さんがいる。
「響きを大切に、たくさん呼んでもらえる子に育つように」という願いを込められた、いずれも三文字の可憐な名前を持つ三姉妹は幼少時代からカーリングに親しんできた。
「最初は菜津季が全国大会に出ていて、それに知那美や夕梨花を連れていく感じでした。だからカーリングの(現場の)雰囲気には慣れていたかもしれません。将来、オリンピックに出られるか? 思ってもなかったです。ないない」
そう朗らかに笑いながら否定するのは、自身もカーラーとして2002年の日本選手権で優勝した実績を持つ母・富美枝さんだ。笑うと少し猫目がちになるのは、知那美や夕梨花に共通する。知那美と夕梨花の小さな頃の話を聞かせてくれた。
「私が仕事で家にいない時に、ふたりでお留守番しながらよく遊んでましたよ。学校ごっこなら先生は知那美で生徒は夕梨花。昔から役割は決まっていたみたいです」
仲の良い姉妹ではあったが、性格はまったく逆らしい。「知那美が“動”で夕梨花が“静”。正反対」と富美枝さんは断言する。
「知那美は好奇心旺盛で、やりたいと思ったことはできるまでやらないと気が済まない子でしたね。自転車の練習を始めた時も、最初は後ろを持って手伝ってあげてたんですけど、夕方になって『また明日やろうね』って終わりにしても、そのままひとりで練習して『乗れるようになったー』って家に入ってきたことがありました。
逆に夕梨花は何をやるにもすごく慎重。口癖が『無理』で、自分の中で確かなものを確立するまで動かないから、知那美みたいな冒険はしない。タイプの違う2人(の姉)が上にいると、『こういうことやったら怒られるんだな』っていう空気を読む力がつくんですかね」
知那美はカナダ、夕梨花は地元・常呂で 初めて別々の道へ
長女の菜津季さんは知那美と6歳差、夕梨花とは8歳差があるのでチームを組むことはかなわなかったが、知那美と夕梨花は「ROBINS」というチームで共にカーリングを始めた。途中でチーム名を「JJ常呂」に改名したが、日本ジュニア選手権では表彰台の常連で、2010年には地元・常呂(北海道)で開催された日本選手権で4位に入っている。ちなみにこの第18回大会には「常呂倶楽部」というチームで母の富美枝さんと姉の菜津季さんも出場していた。
しかし、ジュニア時代に一定の成績を残した吉田姉妹だったが、当時は高校を出て就職して、あるいは大学に進学してカーリングを続ける環境がほとんどなかった。姉の菜津季さんもジュニアで結果を残したカーラーだったが、専門学校を出た後には競技を続けずに就職している。ただ、その菜津季さんがカナダ・アルバータへの留学を経験していることもあり、知那美もバンクーバーへ渡った。
本人は留学に出た当時の心境を「カーリング以外の道もあると思っていた」と振り返るが、それでもバンクーバーに着いてみると、「バンクーバーに着いて1週間ぐらいですぐ、カーリングやりたくなっちゃった」と笑う。
送り出した母も母で、ある程度、予想していたようだ。
「帰ってくるのかも分からない勢いで行っちゃったけれど、カーリングをやめるとは思ってなかった。カナダだったし、ホームステイ先がフジさんのとこだったので、機会もあるかなって」
フジさんとはトリノ、バンクーバー、ソチ、3度のオリンピックで日本代表のコーチや監督を務めた日系カナダ人のミキ・フジ・ロイ氏だ。のちに北海道銀行フォルティウスの監督となる名伯楽である。ジュニア時代の実績やフジさんとの縁もあり、知那美は翌季、北海道銀行フォルティウスに加入した。
知那美がバンクーバーの地でカーリングへの思いを再確認していた同時期、日本では本橋麻里がロコ・ソラーレを立ち上げた。当時、高校生だった夕梨花は悩み抜いた挙句、チーム最年少での入団を決めた。
「姉と初めて分かれてカーリングをするのはつらかったですが、別々にやると決まった時には負けたくないという気持ちが強かった」
北海道銀行とロコ・ソラーレ。姉妹はソチ五輪の出場権を違うチームで競うことになった。
ソチ五輪の出場を決めた姉と、泣いた妹 そして再び同じユニフォームを着る
2013年秋には代表決定トライアルが行われ、その結果、北海道銀行がオリンピック行きの切符を手にする。夕梨花は「あの後はしばらく荒れましたね。やっと最近、その話を人にできるようになりました」と泣き笑いで語ってくれたことがある。
特にソチ五輪前後は会う人がすべて「お姉ちゃん、すごいね」と声をかけてきたという。
「妹なので当然なんですけど、聞かれるのは全部姉のことだし、知らない人からも『オリンピック選手の妹』という目で見られる。そういうのを感じるたびに、私も弱かったので、けっこう落ち込むというか、不安定になっていました」
そんな夕梨花に対して家族は「何も言わずにただ見守って心配してくれた」と夕梨花は言う。
母の富美枝さんは「特別なことは何もしていない」とは言うが、気を遣っていないように見せる気の遣い方をしていた。
「菜津季とは『夕梨花をちゃんと見てよう』みたいな話をしたのは覚えています。あとはファイリングをこっそりするようになったかな」
吉田家ではそれまで娘たちの活躍が報じられると、父の修一さんがコンビニで新聞や雑誌を買ってきては母がせっせとファイリングをしていた。しかし、ソチ前後は夕梨花を気遣って彼女の目がないところで作業をしていたという。
そのファイリングを「堂々とリビングでできるようになった」のは2015年シーズン、知那美がロコ・ソラーレに加入し、5年ぶりに姉妹がチームメイトになってからだ。単純に嬉しかった、とは富美枝さんだ。
「時間の長さを私はそんなに感じてなかったけど、その間、周りから『どっち応援してるの』って言われるのがすごく嫌だったんです。それがなくなってしっかり応援できるようになった」
知那美がソチ五輪後、チームを再編成する北海道銀行で構想外となったのは知られている話だ。本人はチームメイトに救われた、と話す。
「その時は何も考えられない状態でした。自分のパフォーマンスや技術に対して自信が持てずに、それでも、ただカーリングが好きという気持ちだけはどこかにあって。だから、私を受け入れてくれた寛容なチームメイト全員に感謝してます。私、カーリングやってなかったらポンコツだから」
共にカーリングを始めた姉妹が、コンプレックスや挫折を乗り越えて、カーリングを始めた場所で再び同じユニフォームを着ることになった。
5年も違う場所で過ごした経験はチーム力へと還元 平昌では一緒に五輪の舞台へ
知那美は妹をゆりと呼ぶ。
「ゆりがコンプレックスのようなものを抱いているのは気がついていたけれど、実は私にできることはなくて。自分に自信が持てた時に、“お姉ちゃんみたいに”って気持ちは無くなるだろう思っていたんですけど、ロコでもうひとりのカーラー、吉田夕梨花選手になっていたので。頼もしくなったなと感じました」
姉をちーたんと呼ぶ妹は、五輪出場が決まった後、知那美について、「私が持っていない、勢いと経験がある選手」と珍しく語ってくれた。
ROBINSでスキップだった知那美は北海道銀行のセカンドとして五輪のアイスを踏み、現在はサード。器用に複数ポジションを経験してきたが、その柔軟性はチームの武器となっている。
ここでも対照的な妹は、ロコに入ってからリード一筋だ。アイスの状態を誰よりも早く察知し、攻撃の土台をつくり、クセのある石を処理し、的確なスイープでスキップショットを運ぶ。決して派手ではないが、淡々と、しかし誰よりも正確にその仕事を遂行し、チームからは全幅の信頼を得ている。
5年という長い時間を違う場所で過ごしたそれぞれの経験は、そのままチームの力に還元された。
「なんであんなに正反対なのかねえ」富美枝さんは他人事のように笑うが、共通点があるとすれば頑固なところだと教えてくれた。
「一途ともいえるかもしれないけれど、ふたりとも自分で決めたら最後までやり抜く。相談とか経過報告をされたことはあんまりないです。『あの高校に行くことにした』『札幌でカーリングやる』って、だいたい事後報告ですね。それも数少ない共通点かもしれない」
好対照で頑固な姉妹はついに五輪のアイスに並び立つ。修一さんと富美枝さんも会場に応援に行くらしい。姉の菜津季さんは実家で猫の世話をしながらテレビ観戦だが、五輪へ出発する前夜は実家に集まり食事をしたそうだ。
富美枝さんは言う。
「メダルはとか、どんなプレーが見たいとか、人はいろいろ言ってくるけど、(2016年の)世界選手権の時みたいにのびのびと自分たちのプレーをできるのが一番かなって思います」
五輪が終わった後の話は「聞いてないし、話してないです」とも。「きっとそれぞれで考えて、また事後報告してくれるでしょう」などと言いながら、少し目元をほころばせた。涙もろい一家なのだ。
夢の舞台を経験して、吉田一家はどう変わり、それぞれが平昌の地で何を思うのだろう。カーリングを軸にした家族の物語はまだまだ続きそうだ。
<了>
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