選手権出場の喜びと同時に抱いた悔しさ
近年は12月末に開幕し、1月第2月曜日の「成人の日」に決勝が行われる選手権だが、前園が高校生だった当時は1月1日に開会式を迎え、2~4日に1~3回戦をこなし、休養日を挟んで6日の準々決勝から8日の決勝まで再び3連戦となるコンパクトな日程だった。前園は「僕らの頃はタイトでしたね。試合を重ねるほどに疲労度を増すので、勝ちながらコンディションを整えるのが重要でした」と振り返る。
1年生だった第68回大会(1989年度)に、前園は同学年の藤山竜仁、元日本代表MF遠藤保仁(ジュビロ磐田)の長兄・拓哉とともにレギュラーとして臨んだ。五戸(青森)、平工業(福島)、真岡(栃木)を退けて準々決勝に進出し、「憧れの選手権に出る目標を果たして、勝った時には校歌を歌って、地元からも応援団が来てくれる会場の雰囲気は最高でした。それはもう、うれしかったです」。ところが大会中に右足甲を骨折した前園は準々決勝の武南(埼玉)戦に出場できず、鹿実は後半にPKで失点し、0-1で惜敗。この大会で準優勝する武南は後の日本代表MF上野良治を擁する難敵だったが、「1年の時はチームと自分のプレーで精一杯。周りを見る余裕はなかったです」。ベスト8に入りながら、初めての選手権の後味はほろ苦かった。
再起を期した翌1990年度の第69回大会は、インターハイ(全国高校総体)王者の清水商(静岡)が優勝候補の筆頭だった。前園の1学年上が、山田隆裕、名波浩、大岩剛、薩川了洋らJリーグで輝くことになる清商の「黄金世代」に当たる。「清商はすさまじかった。日本リーグのクラブとの試合の映像も見たけれど、山田君が一番輝いていた、スーパーだった。高校生が大人のサッカーをしていたので、優勝は間違いないと思っていました」。ところが清商は3回戦で大宮東(埼玉)にPK戦の末に涙をのみ、選手権から姿を消した。
北海(北海道)、鎮西学院(長崎)、そして習志野(千葉)、帝京(東京)という強敵を倒し、鹿実は旧国立競技場が舞台となる準決勝に初めて駒を進めた。相手は、前年に苦杯をなめさせられた上野良治を擁する武南。「僕の学年で高校時代の別格は、良治とオグ(小倉隆史、三重・四日市中央工業)。良治は天才肌。視野が広くて落ち着いていて、決定的なパスを中盤からどんどん出していました」。試合は2-2からPK戦に突入し、鹿実はGK仁田尾博幸が3人連続で阻止。前園が4人目のキッカーとしてPKを成功させ、決勝進出を決めた。「仁田尾のPKストップは神がかっていた。選手権で紙一重の試合は、何かそういうことがないと勝てないもの」と記憶している。
決勝は国見(長崎)との九州対決に。練習試合を重ね、お互いに知り尽くした間柄だ。前園は「鹿実の松澤隆司監督はマイクロバスに乗って関東まで遠征に出ていた。『国見を見て、国見に追いつけ』『国見がこれくらい練習しているなら、うちはこれくらいやる』という感じでした」と明かす。強烈な対抗意識のぶつかり合いとなった試合で、鹿実は国見の堅守を崩せないまま延長後半に失点。0-1で屈し、準優勝での幕切れとなった。「ここまで来たぞという喜びはありましたが、何かが足りなかった。夢の決勝まで行きましたが、悔しい。次の年こそという思いになりました」。
史上最強と呼ばれた鹿実黄金世代
最終学年となる1991年度の第70回大会。ともにアトランタ五輪に出場することになる城彰二、遠藤保仁の次兄・彰弘が入学し、鹿実の下馬評は前年以上だった。「一番期待されていたチーム。前年の中心選手が3年生に上がり、自分たちも手応えがありました」と前園。特に日本のエースに成長する城の存在は大きく、「3年生相手でもボールをキープできて、周りを使えて、最後はゴール前に飛び込める。彼がキープしてくれる分、僕が2列目からサポートにも入れる。攻撃のバリエーションが増えました」。3回戦は名門・清商に挑んだ。黄金世代は卒業していたが、この年の清商も望月重良、2年生の平野孝、1年生の守護神・川口能活ら豪華メンバーが顔を揃えていた。試合は前園が2ゴールを奪い、2-1で鹿実が制した。「重良がキャプテンで、彼のゲームメークを抑えなきゃいけないと意識していました。タカ坊(平野)は左サイドでスピードがあって左足も強烈。そして、1年生の終わりでGKという一つのポジションを強豪校で取るのは難しい。能活は1年生なのに落ち着いていて安定感があり、守備範囲も広かった。その3人はすごく印象に残っています」。
清商と並ぶ注目校が、小倉隆史、中西永輔、中田一三の「四中工三羽烏」で知られた四日市中央工業(三重)だった。「四中工とは対戦したことがなかったので、ここを上がれば決勝は四中工が相手だなとイメージしていた」。前園が言う「ここ」とは、準々決勝の帝京(東京)戦。ところが後半、大会得点王(7得点)となる帝京の2年生松波正信のクロスへの対応にもたつく間に、日比威に先制ゴールを奪われ、鹿実は0-1で大会を去った。高校時代に対戦することなく終わった小倉の印象を、前園は「ドリブルもできたし自分でゲームメークしながらゴール前に入れるし、ヘディングもうまくてクロスに点で合わせられる万能ストライカーでした。選手権の決勝でやってみたかった」と語る。四中工と帝京の決勝は2-2の引き分けとなり、両校優勝で幕を閉じた。
ドリブラー・前園真聖のルーツ
選手権と高校サッカーは、前園に何をもたらしたのか。鹿児島県東郷町(現薩摩川内市)出身の前園が、鹿児島市で下宿生活を送りながら鹿実に進んだのは、選手権と国立への憧れゆえだった。「当時は日本リーグもありましたが、高校サッカーが一番盛り上がっていました。鹿児島で、あの舞台に立てる高校は鹿実しかなく、中学で絶対鹿実に行くという目標を立てていました」。鹿実の門を叩き、松澤監督にたたきこまれたのは強みであるドリブルで攻める姿勢だった。「ドリブルが好きで自分の武器だと思っていたました。監督も、高校でそこを伸ばしてくれた。今でこそドリブラーが重宝されていますが、ドリブルしてボールを奪われると『わがままなプレーヤー』と捉えがちな時代。でも、僕がうまい選手とマッチアップして消極的になると、監督から『ボールを取られても、何度でもチャレンジしろ』と怒られ、替えられることもありました。高校時代が自分のドリブルを確立させてくれました」と感謝する。前園は鹿実を卒業し、92年に横浜フリューゲルスに加入。「Jリーグ元年」の翌93年から出場機会をつかみ、いきなり天皇杯での優勝を味わった。「プロでやるには何か自分の武器を持っていなければならない。フィジカルが強いわけじゃないし、上背があるわけでもない。ドリブルでやっていこうと思えたのは、高校の指導があったからです。そのトレーニングがプロで生きました」。
高校から直接プロ入りした前園は、選手層の厚いJリーグのクラブで台頭する上でも高校での部活動の経験が有意義だったと感じている。「理不尽な練習なんて、いくらでもありました。ほぼ理不尽。練習時間は4、5時間。練習試合も1日3、4試合で、負けたらその間、ずっと走っている。今じゃありえないですけど、僕はそういう厳しい高校からプロに行っている人たちは要領がいいと思っています」。指示されたメニューを漫然と消化するのではなく、鍛えるべきテーマや集中すべきポイントを常に念頭に置き、自分をコントロールしながら練習に向き合うことが選手として成長する近道だ、と前園は考える。それは、ピッチに立つ選手自らの状況判断とプレーの選択が何より尊ばれるサッカーの神髄に通じるのだろう。
高校時代の集大成にかける想い
新型コロナウイルスの影響で今年度はインターハイが中止され、選手権も開会式が取りやめとなった。「高校生によく言うんです。同じ目標に向かって3年間ずっと一緒にやれるなんて、大人になったら絶対経験できないよって。当時の鹿実のメンバー全員が集まったことは一度もない。もし集まってサッカーをやっても、遊びじゃないですか。本気で目標に向かっていく3年間はすごく大事で、もう経験できない。その集大成が選手権です。3年生は最後で、1,2年生は次の年に向けて経験を積む。その関係性は、次の目標(トップチーム)があるJリーグのユースとはまた違う」。特別なシーズンに、あの冬の歓喜を味わえる高校生が心底うらやましい、と前園の表情は物語っていた。