この4月で10周年を迎えた「FOOT×BRAIN」に特別ゲストとして出演し、自身のオフィスで対談を行った中田氏は「サッカー番組なのに、試合のこと以外を語る番組ということで、当初は1年続けばいいなくらいに思っていました。でも、たまに見させていただくと、そういう観点でサッカーを見ると面白いなということがたくさんあって、新しいサッカーの形をつくっているんじゃないかなと思いますね」と、まずは番組の節目を祝福。さらに「僕も子供の頃、好きでサッカーを始めて、今も好きなことをやっていますけど、子供の頃の気持ちというか、少し遊び心のある、世の中に染まり切らない形というのは非常に大事だと思います」と、その独特なスタンスを自らの“哲学”と置き換えて省察、共感を示した。

現在は、日本酒の販売促進事業などを行う会社「株式会社JAPAN CRAFT SAKE COMPANY」の代表取締役を務め、日本酒、伝統工芸など日本文化の素晴らしさを世界に発信する仕事に取り組んでいる中田氏。一見、サッカーとは何の関係もない活動に思えるが、そこには現役時代と変わらない思いと共通点がある。

「僕は楽しく生きるのが好きなんです。生活の仕方も、自分の好きなやり方をつくる。自分がどうあれば幸せかってことが一番重要ですね。サッカーでも、楽しいのはゴールではなくて過程。そこに幸せを感じる。よく『サッカーをやっていた人が、何でお酒の会社を経営しているんですか』とか『何で伝統工芸の紹介をやっているんですか』って言われますけど、僕としては同じことしかやっていないんです。サッカーをうまくなるためには、こういう問題をこういうふうに解決する・・・と考えるように、ボールが今度は違うものになって、これをこうやって解決したら面白くなるかもね・・・っていうのを繰り返しているだけ。人間のやっていることって、どこにいっても同じなんだなと思いますね」

この言葉に、勝村氏は「何でヒデ君がサッカーをやらないのかとみんな思っているけど、お酒にしても、素晴らしいものを受け取って違うところに送る。現役時代とやっていることは変わらないじゃないかと。ちゃんと球を配っている」と合点がいった様子。これを受けて、中田氏は続けた。

「(サッカーでは)ピッチ上を見て、どう問題を解決するのか、相手と自分がどういう状況にいて、何をすれば最大のパフォーマンスを発揮できるかと考える。そういうのを分析しながら、相手によってやり方を変えて、さらに、ただゴールを決めるのではつまらないから、いかに美しく自分の形でできるかを考えるわけです。それと同じことを、この会社でもやっています。ただ単に、モノを売ることなら他の人でもできる。そうではなくて、他の人の考えない『えっ!』っていうようなことを起こさないとつまらないわけです。ただ単に点を取る、お金を稼ぐではない、自分ならではのエッセンスがないと、自分がやっている意味がないという感じがします」

番組は、ここから豪華サッカー関係者からのビデオレターによる質問に答える形で進行する。まず登場したのは、日本サッカー協会の田嶋幸三会長(63)。田嶋会長は中田氏が現役だった頃、技術委員長として欧州の視察や日本代表招集に関する欧州クラブとの交渉を行うなど、その代表活動に大きく関わってきた人物だ。それだけに、2006年ドイツワールドカップ(W杯)直後に、29歳の若さで現役を引退した経緯が気になる様子。「残念な結果(0勝1分け2敗で1次リーグ敗退)でヒデは引退してしまったけれど、自分自身はもっともっとやってほしかった。あの時の気持ち、どうして早く引退したのかはぜひ聞いてみたい」と問われると、中田氏はあまりメディアで語ることがなかった、当時の心模様を明かした。

「辞めた理由ですか。もうW杯に向かう半年以上前からずっと考えていて、W杯の時にはどんな結果だろうと、もう辞めることは決めていました。いい結果でも、悪い結果でも、まだ動けるし、チームとの契約もあるし、(事前に)決めておかないと絶対に心は揺らぐなと思っていたので。辞める日(を決めること)って、一番難しいじゃないですか。ああいう結果だから辞めたわけではないし、どんな結果でも、たとえ優勝していたとしても辞めていたと思いますね。自分が答えを出すために悩んだ時間を、一瞬の結果によって変えてはいけないっていう自分に対しての思い、それが自分を大切にしてあげることだと。頑固と言われれば、それまでなんですけど」

なぜW杯の半年以上も前に引退を決断したのか。その背景には、まさに冒頭でも口にした「楽しく生きること」という中田氏が自身の人生で貫く“美学”があった。

「僕はサッカーが好きで始めたのであって、プロサッカー選手でいることや、W杯に出ること、勝つこと、何か賞を取ることを目的にサッカーを始めたわけではないんです。サッカーというものが好きで、その環境が好きでやっていた。ただ、環境としてあまり楽しめなくなってきていたんです、あの2005、06年のあたりは。そう考えたときに、プロサッカー選手である必要はないのかなと。好きなものを好きであり続けたい気持ちを大切にするには、ここはいったん離れた方が良いだろうなということで辞めました」

中田氏にとって、サッカーも、W杯も、あくまで楽しむもの。「(W杯は)世界一でかいお祭りみたいなものですからね。1998年(フランスW杯)は、楽しかったですよ。3敗したけれど、楽しかった。当時ヨーロッパでやっていた選手とも対戦するわけですから。でも02、06年は、正直楽しくはなかった。今度(02年に)日本で行われるという時、逆に開催運営に入ったようなものなわけですよ。日本で行われるW杯を盛り上げるためには、結果が残らないと全体が沈む。だからこそ、決勝トーナメントに行かないといけないとか、いろいろなことが命題としてあった。でも、日本はまだW杯出場が2回目。2回目で、そんな命題を課されて、楽しむ以上にプレッシャー、責任が強くなって、本当はもっとチャレンジしたいところをできないとか、そういういうことはありましたよね。また、06年になると、サッカーというものの環境もビジネスとして大きくなっていて、選手たちもそれぞれいろいろな考えを持って、良いプレーをするというのが、チームとしてするのか、個人としてするのか、何かこうバラバラになり始めているなというのはありましたね」

サッカーを楽しむ。それは、サッカーを始めた時から変わらない思いだという。世界的な人気を誇るサッカー漫画「キャプテン翼」の作者である高橋陽一氏からのビデオレターを受け、中田氏は「翼君がなければ、僕は野球をやっていましたね。野球かサッカー、どちらをやろうかという時に、うちの小学校の野球チームは丸刈りで規律も厳しいなと。よく見ると、サッカーは面白そうだなと思い、こっちに決めました。『キャプテン翼』の影響で、スカイラブハリケーンとかもやりましたね。ドライブシュート、オーバーヘッドキックも練習してできるようになった」とエピソードを披露。さらに「中学生の頃から相手の裏を取るのがすごく好きで、驚かせることの楽しさに中学校の頃、目覚めたんです。当然、それをやるにも技術がなければいけないとか、相手の裏を取るには全体を見ていなきゃいけないとか、自分が楽しむための練習をしていたって感じですね」と懐かしそうに笑みを浮かべて振り返った。

続いて登場したセリエA・ローマ時代の同僚だったザーゴ氏(51、前J1鹿島監督)の質問を受け、述懐したのは2000-01年シーズンにスクデット(セリエA優勝)を成し遂げた際のことだ。「優勝した後、すごく(スタジアムで)盛り上がっていて、10分20分ならいいけど、1時間以上ずっとやっていると、さすがに帰りたいなと思って(笑)。ユニホームを持って下に降りていって、消防車の人に『これをあげるから、サイレンを鳴らして家まで送ってよ』と言って、家まで送ってもらったんですよ。街中はすごい人で、チームバスならパトカーの先導があるけど、そうでもしないと帰れなくて・・・。喜んで『OK、OK』と送ってくれましたね」と、日本選手として史上初の快挙を果たした裏でも冷静な“らしい一面”を明かした。

この日の放送の最後はJ1川崎フロンターレ一筋でプレーし、昨季限りで現役を引退した中村憲剛氏(40)。学生時代から同じトップ下、ボランチとして中田氏に憧れ、プレーを研究していたという中村氏は「僕のこと、知っていますか?」と、まさかの質問。中田氏は「もちろん、テレビで見て知っています」と回答し「僕から見ると、線が細そうなのに本当によく考えて動いて、イメージとしてはモドリッチみたいな感じ。よく動いて、でも決定的な仕事もきちっとするという、非常に良いプレーヤーだと思います。一緒に出来なかったのが残念です」と最大級の賛辞を送った。さらに「フロンターレは、非常にチームとして有機的に動いて、スピーディーなサッカーをするなと。それでいて攻撃的というイメージがあります。実際に試合を生で見たことがないですけど」とチームへの関心も示しつつ「あとは、ゴールするといろんなパフォーマンスをするんだなと。何か恥ずかしいってことがないのかなっていうくらい、いろんなことをする」とファンを喜ばせてきたゴールパフォーマンスへの“突っ込み”も忘れなかった。

自身のサッカー観から引退秘話、Jリーグの話題まで、珍しいほどにサッカーについて語り尽くした中田氏。番組の後半、4月24日の放送では、そんな元アスリートが手掛ける異例、かつ斬新な取り組みが深掘りされた。(「後編」に続く)


VictorySportsNews編集部