東京五輪の200メートル個人メドレー決勝が最後のレースとなった。ライバル瀬戸大也(27=TEAM DAIYA)と一緒に泳ぎ6位入賞。3大会連続の表彰台を逃したが「一番幸せなオリンピックだった」と満足感を口にし「ひとまずは、というところがある」と、競技人生に区切りをつける可能性を示唆していた。

 幼少期から「怪童」と騒がれ、栃木・作新学院高3年だった12年ロンドン五輪に初出場。400メートル個人メドレーで銅メダルを獲得し、男子個人メドレー種目で日本人初の表彰台に立った。16年リオデジャネイロ五輪は400メートル個人メドレーで金、200メートル個人メドレーで銀、800メートルリレーで銅と金銀銅をコンプリート。13年日本選手権5冠、14年仁川アジア大会は4冠でMVPに輝くなど複数種目をこなす万能スイマーとして活躍。五輪史上最多となる通算23個の金メダルを獲得したマイケル・フェルプス(米国)になぞらえ「和製フェルプス」の異名を持った。

 15年6月に自転車で転倒して右肘を骨折したことが、競技人生の転機となった。大会に間に合わせるために保存治療で乗り切った16年リオ五輪後に手術を受けると、記録が伸び悩んだ。肘の可動域が狭くなって泳ぎの歯車が崩れ始める中、17年にプロ転向。ブリヂストンと推定年俸最大1億円の所属契約を締結した。

 プロになった重圧から精神的にも追い込まれ、ますます記録は低迷した。19年2月の大会の400メートル個人メドレーで自己ベストより17秒以上遅いタイムに終わると、指導を受ける平井伯昌コーチに「水泳が嫌いになりつつあります」と胸中を吐露。翌月からモチベーション低下を理由に長期休養に入った。

 プールを離れた期間は丸刈りにして、ギリシャやドイツなど欧州を一人旅。自身が泳ぐ意味を自問自答し「人間がシンプルに生きていた縄文時代ならこんなに考え込む必要はなかったのに」などと思った。エーゲ海に浮かぶサントリーニ島では無心で1時間近く海を泳ぎ、己と向き合った。

 引退も頭をよぎったが、地元・栃木の恩師から「引き際は自分で決めろ」と言われ「まだやめたくない」と現役続行を決意。親交の深い騎手の武豊からは「周囲から何を言われても気にするな。自分を信じて突き進め」と背中を押された。「水泳を離れてみて自分はやっぱり水泳が好きなんだと再確認できた」。約3カ月後に練習を再開した。

 五輪が1年延期されなければ「正直、出場は厳しかったと思う」という状態から必死にトレーニングを積み、今年4月の日本代表選考会で東京五輪代表に滑り込んだ。東京五輪出場内定後も心のアップダウンは続いた。トレーニングは順調でもレースで力が発揮できず、本番用水着を履くと体がガチガチになるイップスに陥った。

 開幕1カ月前。長野県での準高地合宿中に異変が起きた。不安と重圧でホテルの部屋から出られなくなり、午前4時に平井コーチに「眠れません」とLINEした。精神的に不安定になり、急きょ1日オフをもらい、妻で歌手のmiwaと1歳の子供を呼びリフレッシュ。日本水連幹部が合宿地入りして棄権も検討される中、何とか持ち直した。

 五輪本番では200メートル個人メドレーの準決勝突破後に感極まって号泣。瀬戸と泳げる決勝を「神様からの贈り物」と表現した。決勝のタイム1分57秒49は自身の保持する日本記録より2秒42も遅い。6位で3大会連続メダルも逃したが「夢見心地。いつもなら〝遅い〟と思う1分57秒だけど、今回は長くてよかったなと思う。順位は悪いけど、何より大也と泳げたし、いい一日だった」と実感を込めた。

 一時は結果だけを求め「メダルを獲らないと意味がない」との意識が強かったが、苦難の日々を過ごし「つまずいても立ち上がって、また前を向いて頑張る。そういうことも大事なのかなと」と競技に向き合う姿勢や過程を重視するようになった。不器用がゆえに「人生へたくそだなと思う」と思い詰めることも多かったが、東京五輪では全力を出し切り完全燃焼。「支えてくれた人に感謝し、僕自身にも〝ありがとう〟と言いたい。水泳を続けて本当によかった」と思い残すことはなかった。

 20年3月、標高2300メートルのスペイン・シエラネバダでの高地合宿。萩野が満天の星空を眺めながら1年先輩の小堀勇気に「なんで星は輝いているんですかね」と尋ねると「本人たちは光っているって知らないんじゃないかな」と返された。どこか哲学的な言葉だったが「なるほど」と腑に落ちたという。プロ転向後は、輝くことを意識せざるを得ない立場に苦しんできただけに、心を許す先輩の言葉が心に響いたのだろう。

 16年リオ五輪の萩野は強く、格好良かった。歓喜の夏から5年。弱さをさらけ出し、自身の生きざまを見せようと、泥臭く泳いだTOKYOでの最後の雄姿も、また輝いていた。


木本新也