「ガンバ大阪勤続歴30年。裏方としてクラブを支え続ける男のこれまでとこれから(前編)」はこちら

観客動員は平均7000人台まで落ち込む

 エムボマも去った1999年には平均観客動員数は7000人台まで落ち込んだ。翌2000年にシドニー五輪が開催された。下部組織出身のDF宮本恒靖、MF稲本潤一が選ばれて、脚光を浴びた。

「ガンバ大阪も代表に選手を出して2002年の日韓W杯を迎えました。2度目のサッカーバブル、この機を大事にしなければ、クラブは生き残れないと考えました」

 自国開催のW杯は日本代表が初めてグループステージ突破し、16強入り。大いに盛り上がった。大会前に鼻骨を骨折した宮本は黒いフェイスガードをつけて奮闘し、海外メディアにバットマンと命名され、全国区の人気者になった。

「そこでガンバ大阪って本当に地域活動やってんの?ここでしっかりやらないと93、94年の繰り返しになる…と考えたんです。2002年の盛り上がりをバブルで終わらせたらあかんやろと」

 W杯翌年の2003年からホームタウン活動として、地元の小学校を回るふれあい活動がはじまった。プロのアスリートが小学校を回る活動は当時ほとんど前例がなく、当初教育委員会からはパナソニックの宣伝になるからユニホームを脱いでほしいなど、さまざまな条件がつけられた。

「宣伝でなくて地域活動がしたいんです、選手がユニホーム着ていないとおかしいでしょと強く訴えて、なんとかOKが出ました。宮本ら選手が演じるデモを見て子供たちは盛り上がる。選手が話し始めたら集中して聞く。子供も積極的に手を上げて質問をする。そういった様子を先生や保護者がみてくれました。訪問した小学校で、生徒会長の女の子にお礼のあいさつをしてもらいました。その言葉が忘れられません。『ガンバ大阪は近くにあるクラブだと思っていました。近くにあるガンバ大阪が今日やっと「私の心に入って」きました』。泣きましたね。そういうことなんやと。相手のホーム、家や学校にいかなあかんのやと。ガンバのホームの万博の試合に来てくださいじゃなくて、よその家にいく。我が家に来てくれたことをこんなに楽しいと喜んでくれた。やり続けないといけないと思いました。最近ではこのふれあい活動を経験して、入ってきてくれた選手、クラブスタッフもいます。一度前例ができると、あちこちの学校から声がかかり、『なんでうちにはきてくれへんのや』とコロっと変わって(笑)実施時間も放課後から授業に組み入れられるようになりました。このコロナ禍で最近はできていませんが、20年間続けています」

社長から「だったら、お前がやれ!」

 当時は広報に就いていた。2002年W杯では長居スタジアムのメディアオフィサーを務めていたが、転機が訪れた。佐野泉社長(故人)が就任。単刀直入に聞かれた。

「伊藤、このクラブは何があって、何が足りひんねん?」

 釜本FCの流れをくむアカデミーからは宮本、稲本、FW大黒将志と次々に日本代表に選ばれ、のちに欧州に移籍していった。間違いなく日本トップクラスの実績を残していた。「育成組織(アカデミー)は誇れるものなので、もっと磨いた方がいいですよ」と答えた。足りないことについては「地域活動は本気でやっているかというと、やってないですよね。ホームタウン活動をやっているフリじゃなくて、本気でお金もかけてやったほうがいいです」と答えた。本音だったから、耳かき一杯分ぐらいの毒も含ませていた。納得した表情の佐野社長は「それか。それは誰がやったらいいんだ」と切り出した。「誰ですかね」と返事に窮すと「だったら、お前がやれ!」と指令が飛んできた。

「ちょっと待ってくださいと最初は抵抗しましたが、やることになりました。本音では勘弁してくれと、厳しい宣告みたいな感じに受けとめていました(笑)。自分のじいちゃんよりも年上の地域の高齢者の自治会長さんとかしゃべることになるのかと」

 2004年からホームタウン担当になった。北摂北河内の14市3町をホームタウンとしていたガンバ大阪だが、2004年に吹田市、茨木市、一時市長の公約としてスタジアム建設構想が持ち上がった高槻市の3市を重点ホームタウンに絞り込んだ(現在は豊中市、摂津市、池田市、箕面市を含めた7市)。伊藤はその真ん中の茨木市の担当を買って出た。とにかく街の人の中に飛び込んでいった。勧められて青年会議所(JC)にも入った。商工会議所や観光協会のイベントにも顔を出した。会合には必ずガンバ大阪のジャンパーを着て出席した。

「スポーツでいろんな人に出会えました。スポーツの出会いで街を変えたい。この街がよかったなあと元気をもらえる、そんな街づくりのお手伝いをガンバ大阪ができれば、めっちゃええと思うんですよ」

 いろんな人とコンコンと飲んで、コンコンとしゃべった。

「おっ、気に入ったという人は何人つくれるか、そこからのスタートでした」

 自分を知ってもらうことが大切だった。身内の不幸の話もした。少年時代、牛乳配達をしていた苦労話もした。飲んだ牛乳瓶の返品の仕方もさまざまで、きれいに洗って逆さまにして戻す家があれば、飲んだままで蓋などのゴミがそのままの家もあった。配達先の離れにあったトイレを借りてみて、きちんと手入れされているか、そうでないかを見て、その家がどんな家か、どんな人が住んでいるのか…思いを巡らせた。門構えだけでは分からない、人を見る眼が自然と磨かれていった…みたいな昔話もした。そこにサッカーもガンバ大阪も存在しない。伊藤慎次という人間をまず知ってほしかった。

「小さいときから墓参りはちゃんとする、実家に帰ったら仏壇に手を合わせる、近所の人にあいさつする、あいさつができなくても頭は下げる、そういうことはやってますとか。そんな話をしていくうちに街の人から、よしお前は信じる!みたいな感じで、徐々に受け入れられるような雰囲気になってきました」

 あらゆるところであらゆる人にあった。のちにホームタウン活動について他クラブの関係者に話を聞かれる機会があった。「3年ぐらい種まきやってから刈り取りですか」と質問されたので、首を横に振った。

「つながりに近道はなくて、地道にやっていくしかない。3年種まきをやって刈り取ろうと思っても、雑草が生えているぐらいで、木にも枝にもなっていない。そこで刈り取りにいったら、何もなくなってしまいますよ、と。10年ぐらいやって、やっと向こうからガンバ大阪さんいつもおるよね、と声をかけられ、いろんなことができるようになってくる」

茨木市内の居酒屋で初優勝の時を迎える

 地道なホームタウン活動を続ける中、2002年から西野朗監督に率いられたトップチームは、育成組織出身者とブラジル人選手が融合し、魅力的な攻撃サッカーで右肩上がりの躍進を続けていた。2005年、ついに収穫の時を迎える。2位でリーグ最終節を迎えた。トップはセレッソ大阪。ガンバ大阪は勝ち点差1で続いていた。5チームに優勝の可能性があった。ガンバ大阪は前節で敗れ、長らく守っていた首位をライバルチームに明け渡していた。最終戦は等々力競技場での川崎戦。初優勝のチャンス。上司から元広報担当者と見込んでの指示が出た。

「万一、優勝した時、大阪で広報担当できるのは、お前やから居残りしろって。これだけ長いことクラブにおるのに、初優勝のとき、俺、留守番ですかって?」

 優勝した場合、チームは等々力から大阪に戻ってきてホームの万博記念競技場で、初優勝記者会見、メディア対応(優勝特番など)、ビールかけを行う段取りだった。現地等々力にいては準備が間に合わない。残ってメディア対応も含めた祝勝会の取り仕切りを命じられたのだ。

 川崎戦は打ち合いで、後半34分、遠藤保仁のPKで3-2とリードした。ところが、勝てば自力で優勝を決めることができるセレッソ大阪が、時計の針が90分を指そうとしていたころ、FC東京の今野泰幸に混戦から同点ゴールを決められた。この一部始終を伊藤は茨木市内の居酒屋のテレビで観ていた。茨木市ガンバ後援会(青年会議所OB)の先輩らが10人ぐらい集まっていた。

「お酒も飲まずに、Jリーグの優勝権利を持った5クラブの壮絶な最終戦を、NHKでの5元TV中継をみていたんです。結果、最後アラウージョが決めて、4-2で勝って、みんなで抱き合い大泣きしました。で、俺なんでここにおるねん。そんなことあるのって(笑)。初めてタイトルをとって、ユニホームに☆が一個ついて、地域の人により深く入っていけるようになりました。“我がガンバや”って思ってくれるようになりました。象徴的な話でいうと、タイトルを取ると家から自信を持ってユニホームを着て来てくれるファンが増えました。いままでなら、鞄の中に入れて持ってきて、スタジアムで着て、また負けたーと脱いで帰っていた。行きも帰りもずっと宣伝してくれるわけですからありがたい。2008年にアジアのタイトルも取って、そういうお客さんがさらに増えました」



「ガンバ大阪勤続歴30年。裏方としてクラブを支え続ける男のこれまでとこれから(中編)」・了
「ガンバ大阪勤続歴30年。裏方としてクラブを支え続ける男のこれまでとこれから(後編)」へ続く


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伊藤 慎次(いとう・しんじ)
1967年(昭和42年)4月29日生まれ、54歳。三重県三重郡菰野町出身。菰野中からサッカーを始め、四日市中央工高では右ウイングで、2年次にインターハイ全国制覇(秋田)、3年時に全国高校サッカー選手権で決勝に進出、清水市商高に敗れ、準優勝。東海大では1年時に全国制覇し、4年次に学生コーチ。卒業後松下電器入社。ガンバ大阪では、広報、2002年日韓W杯では長居スタジアムでのプレスオフィサーを務める。2010年からJリーグ事務局に出向。2012年途中ガンバ大阪に戻り、ホームタウン担当などを歴任し、現在営業部部長。

ガンバ大阪勤続歴30年。裏方としてクラブを支え続ける男のこれまでとこれから 「お客さんが少ないので、練習試合ですか?と聞かれたこともあった」

2021年10月でクラブ創立30周年を迎えた関西の雄・ガンバ大阪。リーグ優勝2回、シーズン3冠、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)での優勝など、獲得したタイトルを示すユニホームの星の数は9個。切れ目なく育成組織から日本代表選手を輩出し、東京五輪2020では、GK谷晃生、FW堂安律、FW林大地らが活躍した。

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大澤謙一郎

サンケイスポーツ文化報道部長(大阪)。1972年、京都市生まれ。アマチュア野球、ダイエー(現ソフトバンク)、阪神担当キャップなどを務め、1999年ダイエー日本一、2002年サッカー日韓W杯、2006年ワールド・ベースボール・クラシック(日本初優勝)、阪神タイガースなどを取材。2019−2021年まで運動部長。2021年10月から文化報道部長。趣味マラソン、サッカー、登山。ラジオ大阪「藤川貴央のニュースでござる」出演。