苦渋の決断

 現役を退いて親方になった関取経験者の断髪式は通常、所属する部屋や後援会などが主体となり「引退相撲」というイベントの中に組み込まれて実施される。現役関取たちが協力して取組を披露し、禁じ手を面白おかしく紹介する初っ切りや相撲甚句なども催され、人気力士だと両国国技館に満員の1万人強の観衆を集めることもある。タイミングとしては1月の初場所、5月の夏場所、9月の秋場所と、年3回の東京開催場所後の土日祝日に国技館で開催されることが多い。

 しかし去年から新型コロナ禍が世界中を襲い、大勢が集まってのイベントは軒並み中止や延期を余儀なくされた。例えば、2019年7月の名古屋場所で引退した安治川親方(元関脇安美錦)は当初、昨年10月に引退相撲を行う予定だった。しかし、最初に今年5月に日程を変更。それでもコロナ禍は収まらず、来年5月29日(日)に2度目の延期となった。安治川親方は公式ホームページ上で「チケットを購入いただいている方々にはお待たせし、大変申し訳ございません。準備と対策を重ねてまいりましたが、コロナによる現状を考慮し、苦渋の決断をさせていただきます」などと説明し、苦しい胸の内を明かした。

 安治川親方の他にも、一昨年秋場所限りで引退した中村親方(元関脇嘉風)、昨年初場所限りだった武隈親方(元大関豪栄道)、昨年4月に引退した井筒親方(元関脇豊ノ島)もまだ断髪していない。この他、昨年11月に土俵を去った秀ノ山親方(元大関琴奨菊)や今年引退した鶴竜親方(元横綱)らも含め、実に13人もの親方がまげ姿のままだ。

少ない来場者で実入り減

 今年に入って少しずつではあるが、新型コロナウイルス感染予防策を講じた上で開催する流れが出てきた。2月にモンゴル出身の元幕内荒鷲が両国国技館で実施した。本来なら昨年5月の予定だったが、ずれ込んでいた。国技館で断髪式が催されたのは、新型コロナのパンデミック(世界的大流行)発生後初めてだった。コロナ対策のため、真冬にもかかわらず館内の窓を全て開放し、寒風が入り込む中での実施。来場者が335人だったのは、感染予防の観点からは仕方なかった。

 コロナ禍がしっかりと終わっていない状況で出席者も少ないということは、金銭的に入ってくる額は減ることが必至。それでも開催に踏み切ったのは、部屋の事情が一因だった。師匠の峰崎親方(元幕内三杉磯)が5月に定年を迎えることになっていたからだ。その前に弟子の門出を祝うことができ、親方は「部屋が終わりなので何とかしてあげたかった」と〝親心〟を口にした。引退後に親方にはならなかった元荒鷲も「こういう状況でやっていただいて感謝しています」と感慨深そうだった。

 その後しばらく間を置き、秋場所後の10月2日(土)に君ケ浜親方(元関脇琴勇輝)の断髪式が実施され、約250人がはさみを入れた。こちらも関取衆の取組はなく、飲食禁止やはさみを持つ前後の手指消毒徹底など入念な新型コロナ対策を取った。君ケ浜親方は「コロナで大変なときに全国のたくさんの方に集まってもらい、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」と、やはり昨今の社会情勢を鑑みて謝意を述べた。翌日の3日(日)には、伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)の還暦土俵入り。東京場所後の週末に国技館で連日、協会員関連のイベントが開かれたのは久々だった。

 ちなみに来年になると1月30日(日)に清見潟親方(元関脇栃煌山)、安治川親方の前日に当たる5月28日(土)に井筒親方が引退相撲を開催予定。また、9月30日に引退したばかりの間垣親方(元横綱白鵬)がいつ断髪式を行うかも今後の注目となった。

収益は事業所得

 引退相撲は入場料の他に、断髪のはさみを入れる際のご祝儀などが収益となる。関係者によると、餞別代わりに断髪された元力士の懐に入ることが一般的。将来、独立して部屋を建てるときの貴重な軍資金になることもある。バブル期には億単位の金銭を得た力士も珍しくなかったという。多額の収入となるため、税務当局も注視している節がある。国税庁のホームページには、わざわざ「力士等に対する課税について」という項が設けられ、次のように明示している。「力士が引退するに際して行われる引退興業に係る所得については、当該力士の事業所得」(表記は原文のまま)。

 実際、断髪式が終わった後に税務署から連絡があり、出席者の数などいろいろと質問された親方もいた。それだけに、当日の入場者数やはさみを入れた人の数に関しては、アバウトではなく正確を期して報道発表がなされ、非常にデリケートなトピックでもある。

 プロ野球やサッカーのYBCルヴァン・カップで、新型コロナのワクチン接種証明などを使った行動制限緩和に関する実証実験が実施されるなど、世間的にもコロナと共生しながらの大規模イベントの在り方について研究が進んでいる。秋口に入って国内のコロナ新規感染者も減少傾向だ。

 それでも「第6波」への警戒感は根強く、マスクは手放せない。大相撲の本場所も当面は観客の上限を定員の50%に制限するなど、完全にコロナ禍以前に戻ることは現時点ではなかなか想定できない。引退相撲も同様で、あるベテラン親方は「満員のお客さんの前で断髪するのはしばらく無理じゃないかな。若い親方たちには気の毒だけど、どこかで区切ってやらないとしょうがない面もある」と指摘する。

 入場者数が制限された上に、コロナ禍がもたらす経済的な打撃や、今後断髪式が立て込むかもしれない日程面を考慮すると、ご祝儀が集まりにくいことが懸念される。約1万人が来場して約380人がまげを切った2010年10月の元朝青龍の断髪や、約1万1千人が詰め掛けて約300人がはさみを入れた2019年9月の荒磯親方(元横綱稀勢の里)の式はもはや、「今は昔」の出来事か。まげを結っている親方衆やその関係者たちにとって切実な問題だ。


VictorySportsNews編集部