「ジョホールバルの歓喜」でスターダムに。“野人”岡野

 そういう星のもとに生まれた存在なのか、危機から救った結果がそう呼ばせるのか。新たな「スター」が、日本のW杯の歴史の中では毎回のように現れてきた。本連載の(1)監督交代 で触れた「ジョホールバルの歓喜」では、お馴染み“野人”ことFW岡野雅行(浦和・当時/以下同)が、まさに1つのゴールで一気にスターダムにのし上がった。

『歴史で探るサッカー日本代表、危機的状況から脱出する方法 「監督交代」』の記事へ

 1997年11月16日、マレー半島最南端に位置するマレーシア・ジョホールバル。フランスW杯アジア最終予選でグループ2位に終わった日本は、第3代表の座を懸けて、中立地の一発勝負でイラン代表とW杯出場権を争うこととなった。2-2で突入した延長戦で開始と同時にMF北澤豪に代わってピッチに立ったのが岡野だった。

 最終予選で1度も出場機会がなかった岡野だが、両軍疲弊する中で、その脚力を買われてピッチに送り出された。期待に応え、何度もゴールに迫ったが、GKと1対1になった絶好機でシュートを打たずにMF中田英寿へのパスを選択したり、シュートをゴール上に打ち上げたりと、絶好のチャンスをことごとくつぶし、岡田武史監督はベンチで何度も頭を抱える始末だった。

 このままPK戦か・・・と思われた延長後半13分、歓喜の時が訪れる。FW呂比須ワグナーが中盤で奪ったボールを中田が受け、ペナルティエリア手前でミドルシュート。GKアハマド・レザ・アベドザデがはじいたルーズボールに岡野が走りこみ、スライディングしながら右足でゴールに押し込んだ。当時はゴールを奪った瞬間に勝利が決まるゴールデンゴール方式。岡田監督をはじめコーチ、スタッフ、ベンチの選手が一斉にピッチに駆け出して岡野を祝福した光景は、今でもしばしばテレビなどで取り上げられるほど日本サッカーの名場面として刻まれている。

 試合直後のインタビューでは「出場のチャンスが少なくて悔しかった」などとクールに語っていた岡野だが、本音は違った。今年6月にアップされたYouTubeチャンネル「福西崇史福ちゃんねる」で元日本代表MF福西崇史氏と対談。「本能でスライディングした。『もう(シュートを)ふかせない』みたいな。それで入れて、本当に何も聞こえないし、頭が真っ白になった」と当時を振り返り、「あれ、負けていたら俺は絶対サッカーを辞めているし、下手したら自殺している可能性もある」と、その体験がただならぬものだったことを述懐している。日本を初のW杯出場に導いた岡野はその後、長髪を振り乱して走る風貌などから「野人」の愛称で親しまれ、お茶の間の人気者となった。

彗星のように現れたストライカー。大黒将志

 2005年2月9日、埼玉スタジアムで行われた北朝鮮とのドイツW杯アジア最終予選初戦。その舞台で、一夜にして国民的ヒーローになったのがFW大黒将志(G大阪)だ。

 試合開始直後にMF小笠原満男のFKで先制したものの追いつかれ、試合は同点のまま後半ロスタイムに突入した。小笠原の右クロスを相手GKがパンチング。そのこぼれ球をMF福西が拾って前へ出すと、素早く反応したのが大黒だった。ゴールを背に反転し、ダイレクトで左足を振り抜く。12年ぶりに戦った北朝鮮を相手に、誰もがドロー発進を覚悟していたところから、あまりに劇的なゴールが生まれた。突然現れた新星に、スタンドは「オオグロ」コール一色。翌朝のスポーツ紙には「神様、仏様、大黒様」の見出しが躍った。

 当時のジーコ・ジャパンは、中盤にMF中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一らビッグネームが名を連ねた一方、FWの決定力不足という積年の課題を解消できずにいた。1次予選でも、オマーンやシンガポールといった“格下”に1点差で辛勝という状況。長らく“点取り屋”の台頭が待たれた中で、彗星のように現れたストライカーに、誰もが興奮し、夢を見た。

 04年シーズンにJ1で日本選手最多の20ゴールを決めた大黒は、翌年1月に負傷で離脱したFW久保竜彦に代わって日本代表に追加招集。1月29日のカザフスタンとの親善試合で代表デビューしたばかりだった。当時の予選は現在と異なり、ベンチ入りは18人まで。招集メンバー24人のうち6人がベンチを外れる計算で、本人すら「ベンチ入りは微妙だと思っていた」という。

 ところが、ジーコ監督は直前の大宮ユースとの練習試合でハットトリックを決めるなど、好調だった大黒を抜擢。後半34分にFW高原直泰、中村に続いて3人目の交代カードとして投入した。大黒にとって、国際Aマッチはこれが2試合目。W杯をかけた大舞台はもちろん初めてだったが、土壇場でチームの“救世主”となった。

 「31」。当時付けていた背番号も話題となった。大阪出身で、幼少期から大の阪神ファン。小学生時代にはサインを求めて掛布雅之の自宅に押し掛けたこともあったほどだ。「掛布(元阪神)の番号やん!」と、与えられた背番号に大黒は興奮。3度の本塁打王に輝いたプロ野球界の大スターに力をもらい(?)、スターへの階段を駆け上がった。

 ちなみに、この大黒のシュートが決まった埼玉スタジアム北側のゴールは、常にW杯予選で“メークドラマ”の舞台となってきた場所でもある。04年2月の1次予選・オマーン戦の久保、11年9月の3次予選・北朝鮮戦のDF吉田麻也、16年10月の最終予選・イラク戦のMF山口蛍と劇的なゴールが決まり、今年10月12日の最終予選・オーストラリア戦でも後半41分に途中出場のFW浅野拓磨のシュートがオウンゴールを誘発し決勝点となった。影の“救世主”は「埼スタの北側ゴール」。そんな声もあるほどだ。

 それはともかく、このゴールをきっかけに代表に定着した大黒は、最終予選6試合中4試合に出場。W杯出場を決めた05年6月8日の北朝鮮戦(バンコク)ではFW柳沢敦に続くチーム2点目のゴールで勝利を決定付けるなど、その後も勝負所で輝きを放った。大黒に始まり大黒に終わる。ドイツW杯最終予選は、そういっても過言ではない大会だった。

 その後、大黒はフランスリーグ・グルノーブルへの移籍を果たし、W杯本大会では全3試合に途中出場。W杯後は、中田が契約していた大物代理人ジョバンニ・ブランキーニ氏と契約し、憧れていたセリエA移籍を実現。アルベルト・ザッケローニ監督率いるトリノでプレーすることとなる。

自ら「スター」の座を求め、手繰り寄せた点で異色の存在。本田圭佑

 2007年11月。イビチャ・オシム監督が脳梗塞で倒れ、08年2月からの南アフリカW杯アジア最終予選で指揮を執ることが困難になった際、緊急登板したのは「ジョホールバルの歓喜」で“主役”となった岡田武史氏だった。コンサドーレ札幌、横浜F・マリノスとJリーグで実績を積み上げ、「名将」の評価を不動にしていた指揮官は、09年6月にアウェーで行われたウズベキスタン戦に1-0で勝利し、グループ2位で予選を突破。しかし、ここから苦しい戦いが続く。

 10年2月の東アジア選手権(国立、味の素)は4チーム中、まさかの3位。4月7日のセルビア代表との親善試合(長居)に0-3で敗れると、一部サポーターから解任を求める署名が日本サッカー協会に提出されるなど、きな臭い空気が漂い始めた。W杯の壮行試合として行われた5月24日の韓国戦に0-2で敗れると、岡田監督が試合後に日本協会・犬飼基昭会長(当時)に「進退伺い」とも取れる発言をするなど、W杯本番を目前にチームは危機的状況に追い込まれていった。

 しかし、ここで輝きを見せたのがMF本田圭佑(CSKAモスクワ)だ。岡田監督は基本布陣を4-2-3-1からMF阿部勇樹をアンカー(3ボランチの中央)に据えた4-3-3に変更。これまで攻撃の核を担ってきた中村を外す大胆な賭けに出た。そこで、1トップとして起用されたのが右FWを定位置にしていた本田。急遽組まれたジンバブエとの練習試合で初めてテストされ、その4日後、6月14日のカメルーンとのW杯初戦(ブルームフォンテーン)に同布陣で1-0勝利。しかも、その1点を本田が挙げるという劇的な形となった。さらに、本田は24日の1次リーグ第3戦・デンマーク戦(ルステンブルク)の前半17分に先制の無回転FKを決め、3-1での勝利に大きく貢献。海外開催のW杯では初となる決勝トーナメント進出を日本にもたらした。

 岡野、大黒と一夜にしてスターになった“救世主”とは異なり、本田は自ら「スター」の座を求め、手繰り寄せた点で異色の存在でもあった。本田が日本代表戦に初めて出場したのは08年6月22日のW杯アジア3次予選・バーレーン戦(埼玉)。その後も、攻撃的MFポジションで中村と役割が重なるため、定位置を得るまでに至らなかった。ところが、ある“事件”を境に、代表チームで存在感を際立たせることになる。

 09年9月5日。オランダ遠征中だった日本代表は、敵地でオランダと親善試合を行い、本田は後半開始から途中出場。すると同18分に得たFKのチャンスで、その“事件”は起こった。

「蹴らせてくださいよ」

 中村がセットしたボールを今にも蹴らんと近づく本田。23歳の金髪の若者は、チームの絶対的存在だった31歳に何度も食い下がった。「ここはオレでしょ」「俊さん、最近決めていないじゃないですか」。そんな刺激的なやり取りもあったという。結局、この場面で中村は苦笑いしながらもFKを譲らなかったが、その存在を脅かすべく目をぎらつかせる血気盛んな男は、一躍注目を高めた。その後、本田は徐々に代表での地位を確立。最終的にはW杯本番で中村からポジションを奪い、「スター」の座を射止めることとなった。

 数年後、本田は当時を振り返り「自分が俊さんよりFKが上手いと思ったことはない。あのときは蹴りたいと思って主張した」とし「今の若い選手は自分を冷静に見られているけど、逆に型破りなプレー、発言、生き方をする選手がいてもいいと思う」と話したことがある。さらに、今年10月8日には、W杯最終予選で苦しむ現代表チームを受け「日本代表の戦士たちよ。俺からはこの一言だけ伝えたい。大いにこの逆境を楽しめ」とツイッターで呼び掛けた。 現状を打破する“型破り”な選手の登場、ピンチをチャンスと捉えるメンタル。それこそ、日本サッカー界に必要なものと、かつての“救世主”は考えている。

歴史で探るサッカー日本代表、危機的状況から脱出する方法 「監督交代」~”アルマトイの夜”から”ジョホールバルの歓喜”へ

ワールドカップ(W杯)アジア最終予選で4試合を終えて早くも2敗を喫するなど、苦戦を強いられているサッカー日本代表。森保一監督の進退が多くのメディアで話題となるなど、危機的状況にさらされている。11月11日のベトナム戦、同16日のオマーン戦と、今後を大きく左右する重要なアウェーでの2試合を控える中で、浮上の手立てはあるのか。歴史を紐解くと、浮かび上がってくるのが(1)監督交代(2)スター誕生(3)夜間ミーティング -という3つの“ヒント”。今回は「アルマトイの夜」を例に、(1)監督交代に焦点を当てる。

victorysportsnews

VictorySportsNews編集部