マスク姿の支度部屋

 ある幕内力士から昨年12月、最近の支度部屋の様子を次のように聞いた。「ウオーミングアップのために若い衆にぶつかっていくときとか、マスクが広がって目の方まで隠れるときもあります。マスクをしながらの準備運動とか、相撲を取った直後にすぐにマスクを着けるのは正直きついですよ。でもコロナ防止のためにはやらなきゃいけないですからね」。本番直前までマスクを着けて体を動かすプロ競技。2年前の春場所以降、報道陣も支度部屋に入ることができない。外側からはうかがい知ることのできない空間でも、地道な対策が継続している。

 本場所興行の大きな礎となっているのは言うまでもなく、日本相撲協会員の徹底した予防策だ。普段の生活でもある意味、世間一般よりも厳格な対策を講じている。初日の約2週間前から不要不急の外出禁止になることは恒例。朝晩には検温を欠かさず、部屋によっては外から戻るとすぐにシャワーを浴びるなど“ウィズコロナ”を過ごしている。

柔軟な対策

 感染症の専門家が適宜、本場所会場を視察し、アドバイスする。相撲協会はその指導に基づき、より良い興行を目指しながら柔軟に対策を講じていることも見逃せない。例えば1月の初場所で、当初は座席でビール1本程度の飲酒をしたり、焼き鳥などの軽食を取ったりすることを許可する案内をしていた。しかし、世間的に感染者が増加していく中で専門家の助言により従来通り、水分補給以外で座席での飲食することは禁止になった。もともとは、升席で一杯飲みながら力士たちの奮闘に視線を送るという大相撲本来の雰囲気を、少しでも来場者に楽しんでもらおうとした施策だった。

 大相撲はファンや後援者に支えられており、角界関係者は総じて「お客さん」を大事にする。2年ぶりに福岡開催となった昨年九州場所では13日目以降、時間などの制限付きではあるが場所中でも後援者との会食などを認めた。地方の後援者は1年に1度のご当地場所を待ちわび、力士団を迎え入れる。コロナ対策で引き締めることが多い状況の中で、応援してもらっている存在を意識しながらの緩和は“機を見るに敏”。大相撲界の懐の深さと言える。

 その一方で、本場所の来場者にはマスク着用や、声を出さない応援の推奨など、協力してもらうべきところは協力を要請。ファンも本場所の成功に大事な役割を果たしている。

違反には厳しく

 角界には悲しい出来事があった。2年前の5月、医療機関が逼迫していた時期に三段目力士の勝武士さんが新型コロナにかかり、亡くなった。糖尿病の持病を抱えていたという。そんな過去があった上に、協会員に加えてお客さんにも我慢をしいて安心安全な本場所を志向しているのだから、専門家の知見に基づいて制定された新型コロナウイルス感染対策のガイドラインに違反すれば、相応の処分を科される。場所前や場所中など、禁じられている期間以外に不要不急の外出をし、万が一新型コロナに感染した場合、他の協会員に広範囲に伝染してしまう可能性は十分に考えられる。他の力士たちの命に危険が及んだり、来場者にも拡大してしまったりと、取り返しのつかない事態を招きかねない。先人たちが必死に守ってきた土俵や本場所を台なしにする恐れがあるため、違反者への処分も厳しくなるのはやむを得ないだろう。

 昨年5月、模範となるべき大関でありながら外出禁止期間にキャバクラ通いが発覚した朝乃山は、週刊誌報道を受けて協会側に事情を聴かれた際、最初は「事実無根です」と虚偽の返答。その上で夏場所の土俵に上がってファンの前で相撲も取っていた。しかし、再度の事情聴取に違反を認め、結果的には6場所の出場停止処分を受けた。外出禁止の期間に接待を伴う飲食店を何度も訪問し、一昨年に違反が判明した幕内阿炎も3場所の出場停止だった。

“奇跡”から“堅実”に

 振り返れば2020年3月、初の本格的な新型コロナ禍に突入していた時合で、大相撲春場所をエディオンアリーナ大阪で観客を入れずに開催した。選抜高校野球はもとより、プロ野球、サッカーのJリーグなどが軒並み取りやめになり、他にスポーツが消えていく中でも15日間を走り切った。当時は新たな社会的脅威を前に、協会員に陽性者が出れば場所を打ち切る方針だった。感染防止策を徹底した角界全体の覚悟が実を結んで無事に終了し、現在につながっている。

 場所を重ねるごとにコロナ対策も深まった。場所前2度のPCR検査で陽性者を確認し、その部屋全体で全休させる代わりに番付は原則的に据え置く。場所中に万が一、感染者が出た場合でもなるべく濃厚接触者が少なくなるように工夫。また関係者によると、両国国技館内にある協会事務所も寒い冬場でも徹底した換気を実践し、協会員と接触する機会のある職員たちの感染予防にも余念がない。

 初場所が終わると、長野県上松町出身の御嶽海が新大関になり、静岡県熱海市出身の熱海富士や鹿児島県種子島出身の島津海は新十両に昇進した。それぞれ地元が歓喜に沸いた様子がメディアで伝えられているように、力士の頑張りはさまざまな人たちを元気づける。2020年春場所では“奇跡”と言われた本場所の完走が、今や“堅実”に実行されている。最近の全豪オープンテニスをはじめ、海外ではマスクをしていない観客の姿が目立つ。変異株の出現でなかなか収まらないコロナ禍に対し、日本では日本らしい有効な手だてを尽くせば、スポーツの良さが消えることはない。


高村収

1973年生まれ、山口県出身。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事