成功例は他競技の監督があてはまる

 異例の事態に直面し、2つの取材経験を思い出した。まずは成功例。学生アメリカンフットボールの常勝チームとして知られる関西学院大の前監督、鳥内秀晃氏のケースである。2018年春、日大との定期戦で起きた悪質タックル問題で何度も会見に登場し、厳しく暴挙を批判した髭がトレードマークの指揮官だ。個人面談で学生に「どんな男になるねん」とド直球で問いかけ、日本一になるために選手がやるべきことを整理させ、モチベーションを極限まで高めてきた。緻密な戦略、求心力、勝負勘、時には大阪弁丸出しのジョークでチームを和ませ、死にものぐるいで倒しに来る立命大、京大、日大といったライバルを退けてきた。甲子園ボウルは実に12度、社会人を倒してのライスボウルは1度制覇。退任後は講演活動などを行っている。

 比類なき実績を誇る名将がシーズン終了後に勇退することを明らかにしたのは2019年2月11日、納会を兼ねた甲子園ボウルの優勝祝賀会だった。約400人の出席者の前でそろそろおひらきというときにマイクを握った。

「来シーズンをもって、監督を退こうと決めました」

 アメフト部を率いて春から28シーズン目に入る。6度更新した4年契約が終了することが理由のひとつだった。「去年ぐらいから考えていた。自分は長すぎた。一人でやり続けることの弊害が出てくる可能性はある」。注目すべきこのタイミングでの発表理由については「今、言った方が次の世代交代がスムーズにできる」と説明した。

 長期政権を築いた鳥内監督は晩年後継者育成が常に頭にあった。米ハワイ大へのコーチ留学経験もあり、社会人でヘッドコーチを務めた関学大OBのアシスタントヘッドコーチ、大村和輝氏を後継候補と考え、最後の方はチームマネジメント全般を委譲。鳥内氏が勇退を表明した時点で大村氏へのバトンタッチは衆目一致の既定路線で、記者も「後任は大村氏が有力」と迷いなく書いた。実際、シーズン終了後、ほどなく大村氏の昇格が発表された。時間をかけて練られた後継人事が明確だったことで、退任表明によるチームの動揺はほとんどなかったといえるだろう。

 実際このシーズン、関学大はリーグ戦で立命大に敗れたが、代表決定戦で借りを返し、大学日本一を決める甲子園ボウルを制した。鳥内監督は「(監督が)最後の1年だから頑張るというのはないやろ。(選手は)自分のためにやってや」と話していた。選手は勝利のために己の役割を全力で果たすだけ。究極の分業スポーツであるアメフトのエリートたちは、マインドも成熟していた。自分たちのやるべきことに徹して、勝ち切った。

 鳥内氏は矢野監督と対談したことがある。今回の退任表明について聞くと「プロとアマは違うんちゃう?」という短い感想を残すだけだった。

一方、プラスに働かない例もある

 若い選手に寄り添い、叱咤激励し、可能性を伸ばそうとする矢野監督は、選手から人望があると聞く。人望があるからといって、それがプラスに働かない例もある。2008年のソフトバンクだ。2006年シーズン途中に王貞治監督が胃がんの全摘出手術を受けた。翌2007年に復帰したが、3位。そのシーズン最終戦のミーティングで選手に告げた。「あと1年やる。最後のつもりでいる」。続投した2008年シーズンで退くという決意だった。矢野監督のようにチーム外に表明したわけではないが、事実上のラストシーズンになった。

 大手術を乗り越えた監督のため…ここまで引き上げてくれた監督のために…奮い立った王チルドレンは悲壮な決意でペナントに臨んだが、この思いが空転する。故障者が続出。投手陣は崩れで、秘蔵っ子の打者は金縛りに遭ったように打てなくなった。終盤は負けに負けて順位を下げて、12年ぶりの最下位にまで転落。王監督への強い思いがあるからこそ、選手が力を発揮できないという事態に陥った。指揮官の去就というのは、選手との結びつきが強ければ強いほど、センシティブなテーマなのだ。勝負事は心技体、平常心が最も大切だとよくいわれる。そのことを思い知ったシーズンだった。

史上最も長いストーブリーグが開始

 阪神でいえば後継監督がはっきりしない。1軍監督の仕事は勝つことが最大のミッションなので、矢野監督の契約条項に後任候補の育成は含まれていないだろう。そこは専権事項になるオーナーと球団フロントの仕事になる。指揮官が今季限りでの退任を公表した時点でストーブリーグの火ぶたが切られた形。シーズン、ポストシーズンを通じ順位が確定するまで人事問題については極力触れないというのが、ここ数年の阪神球団とマスコミ間の不文律だった。戦っているチームに影響しないようという球団側の論理だったが、今回キャンプ前の監督の退任表明をフロントが承知していたとあれば、この理屈は通らないだろう。必ず監督は退くわけだから、後任人事は水面下ですでに着手されているはずだ。史上最も長いストーブリーグが始まったといえる。

 とにかく穏やかでないスタートを切った2022年の阪神タイガース。船出は波乱含みだが、心強い証言もある。日本球界はトラックマン(弾道測定機器)、ホークアイなど米球界で主流なデータ計測装置が導入され、戦力分析に活用されている。昨年末、その最先端をいくパ・リーグの球団幹部から耳打ちされた。

「阪神が12球団でもっともバランスが取れている。穴がない。バックアップまでしっかりしていて層が厚い。阪神はこのオフ、トレードしないだろう。埋めたいポイントがないはずだ」

 阪神はこれまでどちらかといえば、無難な選手を指名する傾向が強かったが、金本知憲監督時代から少々の短所は目をつむり、ストロングポイントのある選手を指名する方針に切り替えた。年数が経ち、1位競合した佐藤輝明(近大)をくじで引き当てる幸運もあり、戦力に厚みが出てきた。それが先端の戦力分析ソフトで数値化されているというのだ。キャンプを視察した藤川球児スペシャルアシスタントは2月3日「12球団一の戦力。黄金期が近づいている」と話した。現役時代、火の玉ストレートを投げ込んでいた剛腕が現場に忖度した発言をするはずがない。正直な実感なのだろう。メジャーに流出した守護神スアレスの代役という課題はあるが、戦力は充実一途。実りのときは近い。

勝てば官軍、退任表明が正しいと証明してほしい

 何をやっても注目され、すぐ批判にさらされるのが阪神監督の常。そのストレスは経験した人間でないと語ることはできない。程度の差こそあり、それは選手も同じかもしれない。厳しい経営環境に置かれる会社の中で、年末の早期退職で辞めますと宣言している管理職に部下は何を思うだろうか。ただ、プロ野球選手の報酬は出来高による歩合制のようなもので、監督の去就に心揺さぶられて、本来のパフォーマンスを発揮できなければ、おのずと収入は下がることになる。矢野監督は手塩にかけた選手たちが、メンタル的にも成熟していると信じているのだろう。

 すべての球団が優勝を目指してスタートを切るプロ野球。勝ち方についての方程式やハウツー本はない。勝てばそのとき、正しいやり方だったとして賞賛され、語り継がれるものだ。大いに議論を呼んだキャンプイン前日の監督退任表明。勝負の世界の評価基準はシンプルである。勝てば官軍。阪神が2005年から遠ざかっているリーグ優勝を果たせば、矢野監督のやり方は正しかったと証明できる。


大澤謙一郎

サンケイスポーツ文化報道部長(大阪)。1972年、京都市生まれ。アマチュア野球、ダイエー(現ソフトバンク)、阪神担当キャップなどを務め、1999年ダイエー日本一、2002年サッカー日韓W杯、2006年ワールド・ベースボール・クラシック(日本初優勝)、阪神タイガースなどを取材。2019−2021年まで運動部長。2021年10月から文化報道部長。趣味マラソン、サッカー、登山。ラジオ大阪「藤川貴央のニュースでござる」出演。