「不格好な作品になったけど、自分なりに(苦難を)乗り越える姿を見せる滑りができたのかなと思う。奇跡を望んでいた部分もあったけど、五輪はそんなに甘い舞台ではない。成し遂げることはできなかったけど、やり遂げることはできた」

 北京五輪開幕まで1カ月を切った1月中旬。出場が危ぶまれるほどのアクシデントに見舞われていた。拠点を置く長野市で大雪が降り、練習に向かう途中で足を滑らせて右足首を負傷。1週間まったく氷上練習ができず、2週目からスケート靴を履いたが、十分に滑り込めないまま、同30日に北京入り。本番会場での初練習後、氷の感触を聞かれ「最初のあいさつとしてはうまくできたかな」と答えていたが、裏では深刻な事態に陥っていた。

「4年間を台無しになってしまったなって。絶望の日々を送っていました」

 右脚の踏ん張りが利かないため、北京入り後は本来とは逆の左脚を後ろにして構えるスタートを模索。思うように飛び出せない中、2月5日に本番会場で行われた記録会でわずかな光明が差した。「トライアルの日に、たまたま男子のスタートを見ていて、“このスタートなら右で構えられるかもしれない”と思った」。突貫工事で右脚を後ろにする新たな構えをつくり本番を迎えたが、急造スタートが通用するほど甘い舞台ではなかった。

 同13日の500mはスタート直後の1歩目の左足が氷に引っかかる痛恨のミス。出遅れが響き、得意のコーナーでもスピードに乗れなかった。滑り終えた時点で2組を残して13位。連覇の夢はあっけなく散った。「最初の一歩目で左脚が引っかかってしまって、その後立て直せなかった。自分のスケートがどんどん離れていく感覚で、やりたい表現ができなかった」。会場には18年平昌五輪女子500m銀メダリストで19年に現役を引退した李相花(イ・サンファ=韓国)さんも韓国国営テレビ局KBSの解説者として来場。公私で親交の深い元ライバルの前で本来の滑りを見せられなかった。

 中3日で迎えた続く1000mも見せ場なく10位。満足いくタイムにはほど遠かったが、滑り終えた直後に小平は小さく手を叩いた。

「悲しい姿を見せると同じく悲しくなる方がいると思う。自分自身も、ここまで挑戦してきたことに納得したい。周りの皆さんにも同じような気持ちで五輪を締めくくってほしいなという思いがあり胸元で拍手しました」

 レース後しばらくすると、個人種目初の金メダルを手にした長年のライバル高木美帆(27=日体大職)と抱擁。優勝決定の瞬間は、一度、静かに勝者から離れ、銀のユッタ・レールダム(オランダ)、銅のブリタニー・ボウ(米国)と健闘を称え合うのを待った。メダリスト3選手による歓喜の舞台に割って入らない、配慮に映った。

「今回は失うものはない」挑戦者として臨んだ五輪

 結果的にケガに泣いたが、連戦連勝で迎えた4年前とは立場が違ったのも事実だ。18~19年シーズンに右股関節痛を発症し、一時は片足でかがめない状態まで悪化。19年2月の世界距離別選手権で2位に終わり、2年11カ月続いた女子500mの国内外での連勝が37で止まった。

 19~20年には股関節痛が左に移行。20年11月の全日本選抜帯広大会では同走の郷亜里砂(イヨテツク)に遅れ、国内で5年ぶりに屈した。11月下旬から12月中旬に氷上を離れ、股関節を改善する陸上トレに専念。五輪プレシーズンの真っ直中にリンクに立たない異例の決断だった。

 イチから体を見直し、何とか五輪シーズンに間に合わせたが、今季W杯の500mは8戦中、優勝1回、2位4回、3位1回。4回優勝したエリン・ジャクソン(米国)に力の差を見せられていた。今季ベスト36秒76は五輪出場選手では3番目のタイム。万全の状態でも表彰台はギリギリのラインで、大会前には「今回は失うものはない。無欲です。夢中になりたい」と挑戦者であることを強調していた。

「圧倒的な力があれば(足首を捻挫していても)戦えていたのかなと思う。間に合わないと思ったけど、しっかりスタートラインに立ててゴールできた。足首以外にも使えるところはたくさんあるので、全身を使って滑ることができた」

 3月3~6日にノルウェーで開催される世界選手権は欠場する。同12、13日にオランダで開催されるW杯最終戦に出場して今季を締めくくる予定だ。来季以降は未定だが「もう一度、地元(の長野)で体の痛みがない状態で伸び伸びと滑ることができたらいいなという未来像は描いている」と青写真を描く。ホームの長野市エムウェーブは98年長野五輪の会場で、五輪の夢を追い始めた原点のリンク。北京で見せられなかった最高の「作品」を地元で披露することが当面の目標になる。


VictorySportsNews編集部