「本当にやりきったなと自分自身も思える現役生活を送れたのは、最高の幸せだった」

 2021年に開催された東京2020パラリンピックが終わってから、国枝の脳裏には引退が常によぎっていたという。だが、奥さんの愛さんから、2022年1月に開催されるオーストラリアンオープンに向けて、「とりあえずオーストラリアに行ってみたら」という言葉に後押しされて、国枝はプレーを続けて優勝してみせた。

 その後も好調を維持して、2022年ウィンブルドンでついに初タイトルをつかみ取り、車いすテニス男子シングルスでは、国枝が、テニス4大メジャー大会であるグランドスラムを全制覇するキャリアグランドスラムを達成した初めての選手となった。ただ、歓喜と同時に、引退への思いも強くなった瞬間だった。

「ウィンブルドンの優勝が決まった後に、チームのみんなと抱き合ったんですけど、その時に、芝生のコートの上で、“あぁ、これで引退だな”が一番最初に出た言葉でした」

 さらに、年間グランドスラムがかかっていた2022年USオープンで準優勝した後に、国枝の気持ちは決定的になった。

「“もう十分やりきった”と、ふとした瞬間に口癖のように出てしまった。そういうタイミングなのかなと思い、決意しました」

 2022年年末に、国枝は、10回目のITF車いすテニス年間ランキング1位を決め(2007、2008、2009、2010、2013、2014、2015、2018、2021、2022)、引退に華を添える形になった。

 千葉県柏市出身の国枝は、9歳の時に脊髄腫瘍によって両下肢まひになった。母親の趣味がテニスであったことをきっかけにして、11歳の時に車いすテニスと出合ったのが、新たな運命の始まりだった。

 2006年10月9日に、初めて世界1位に到達。さらに、2009年4月には思いきってプロへ転向した。

 2016年4月に2回目となる右ひじの手術を行った後、当時、若手選手の台頭もあって、なかなか思うような結果が残せない時期もあったが、その難局を乗り越えて世界1位に返り咲き、ついに東京2020パラリンピックで、当時37歳にして再び頂点に登り詰めた。

 東京2020パラリンピックの期間中、国枝は、2006年から指導をあおいでいるメンタルトレーナーのアン・クインさん(オーストラリア)と毎日連絡を取り合っていたという。クインさんは、国枝に、「俺は最強だ!」と毎日口に出してメンタルトレーニングをすることを勧めた人で、ラケットフレームにも、「俺は最強だ!」という自筆入りのシールを貼って、試合の中で弱気になりそうな時に見つめて、気持ちを自ら鼓舞した。

 国枝は、パラリンピックの男子シングルスで3個の金メダル、さらに男子ダブルスも含めると4個の金メダルを獲得したが、その中でも、東京2020パラリンピックでのメダル獲得を特に忘れられない。

「一番の思い出は、やっぱり東京パラリンピックでの金メダルですね。今でも写真を見ますと、震えるような感情になりますし、それぐらい思いの詰まった金メダルだったと思う。東京パラリンピックは、一番の集大成になった」

 国枝は、グランドスラムでは、シングルスで28タイトル、ダブルスで22タイトル、合計50タイトルを獲得し、パラリンピックの金メダルも獲得しているため、キャリアゴールデンスラムを達成している。

「成績やタイトルでは、本当にやり残したことはないです。昨年ウィンブルドンを取って、本当にやりきったなと自分自身も思える現役生活を送れたのは、最高の幸せだった」

 まさに人生をかけて戦った車いすテニスの厳しい勝負の世界から離れて、穏やかな表情になった国枝は、人懐っこそうな笑顔をたたえていた。

“車いすテニスをスポーツとして見られたい”という戦いから解き放たれた国枝

 国枝が残した素晴らしい足跡は、他の追随を許さない試合結果だけではない。

 株式会社ユニクロ代表取締役会長兼社長の柳井正氏は、国枝がプロに転向した際、「大丈夫かなぁ。車いすテニス、プロのスポーツになるかな」と一抹の不安があったことを吐露している。

 一方、プロになった国枝は、車いすテニスを社会的に認めてもらいたい、スポーツとしていかに見せるかというところにこだわっていた。

「(2004年)アテネパラリンピックの時は、僕が金メダルを取っても、(新聞の)スポーツ欄になかなか載らない時期がありました。それをどうにかしてスポーツとして扱ってもらいたい。車いすテニスをやっていて、“車いすでテニスをやって、偉いね”と言われたこともあった。別に、車いすでテニスをやっていることが偉いのではなくて、目が悪ければ眼鏡をかける。僕は足が悪いから、車いすを使ってスポーツをする。そこは、そんな特別なことではないとずっと思っていた。アテネの頃は、スポーツとして扱われず、福祉として、何か社会的に意義あるものとして、メディアを通して伝わっていたと思う。これをやっぱり変えないと。車いすテニスって面白い、予想以上にエキサイトするスポーツだね、そういった舞台に持っていかないと。まずは、スポーツとしてのこだわりを、僕自身が相当強く持ちながらプレーしていました」

 「健常者と障がい者の垣根のないスポーツ」と国枝に言わしめるほど、テニスは、他の競技をリードする嚆矢のような在り方を、ワールドツアーで示してきた。

 1992年からパラリンピックで車いすテニスが正式種目に採用されたが、当時、車いすテニスの国際大会はわずか11大会だった。1998年に国際テニス連盟(ITF)の車いすテニス部門に組み入れられ、現在では、年間に40の国や地域で、約160以上の国際大会が開催され、年間賞金総額300万USドルのワールドツアーとして確立されている。

 また、国枝が着用しているテニスウェアのブランドはユニクロだが、そのユニクロは、2014年6月から、ITF車いすテニスワールドツアーの冠スポンサーを務めている。これは、人格者である国枝の存在とワールドツアーで積み重ねた実績が無ければ、もちろん実現できなかったことだ。

 グランドスラムでは、2007年から4大会すべてで車いすテニス部門が設けられた(ウィンブルドンはダブルスのみで、2016年からシングルスを開始)。数年前からは変化が見られ、以前シングルス決勝は、観客席がわずかな小さいコートで行われていたが、最近では会場内で大きめのショーコートがあてがわれている。

 さらに、2022年USオープンからは、シングルスが8ドローから16ドローに増え、車いすテニスのジュニア部門も始められた。これに追随して、2023年オーストラリアンオープンでも16ドローになった。出場枠が増えたことによって、日本選手が、続々とグランドスラム初出場を成し遂げている。

 「相手との戦い、自分との戦い、そして、スポーツとして見られたいという戦い。この3つがずっと現役中は、肩にのしかかってやっていた」という国枝が、世の中の風向きが変わったことを感じたのは、自身が東京2020パラリンピックで金メダルを獲得した後だ。車いすテニスが多くの人々の目に触れたことによって、ようやくスポーツとして認められた手応えを覚えた。

 その感覚は、2022年シーズンに、オーストラリアンオープン、ローランギャロス、ウィンブルドン、グランドスラム3連勝をした国枝の好調なプレーと密接にリンクしていた。

「今までスポーツとして、皆さんの見る目を変えたい、というところにプレッシャーを感じていたが、1年間、1回もそういった気負いを感じることなくプレーできた。ようやく純粋にテニスができて、相手と向き合えた」

 現役時代の国枝は、常に自分のプレーを進化させようと試み、その姿勢をラストとなった2022年シーズンまで貫いた。そして、ついにスポーツとして見られたいという呪縛から解き放たれて、彼自身が持つ力を最大限に発揮して、最高のテニスを披露してみせた。

 車いすテニスのレベルは、年々上がっているし、これからも上がっていくだろうと、国枝が確信する中、日本の車いすテニスのレベルは世界的に見て高い。

 現在、世界のトップ20に、日本選手が男女共に5人ランクインしている(2月6日付のランキング)。その中には、16歳で国枝の後継者の呼び声高い小田凱人(ITF車いすテニスランキング男子2位)がいる。女子では、東京2020パラリンピックシングルス銀メダリストであり、世界1位経験者でグランドスラムシングルス優勝8回の上地結衣(同女子2位)もいる。国枝は、自分の後を託せる日本選手たちの存在を頼もしく思い、喜んでいる。

「これからどうやって、このスポーツ(車いすテニス)を発展させていくか、僕自身も楽しみ。(男子)ATPや(女子)WTA(ツアー)の大会に、どんどん車いすテニスの部を作ってもらって、そこでプレーする環境が、一番手っ取り早いというか、プロモーションとしてもすごくいいこと。そういう大会を、世界各地で作っていくことも、僕が手伝えることかな」

 後輩たちのサポートもしていきたいという国枝の今後に、柳井氏も大きな期待を寄せている。「新しい国枝慎吾の誕生という意味で、今日はめでたい日です。今までは助走。これからが人生の本番です。今後も、最大の応援をしていきたい。一緒に、世界の中の日本をより良く変えていきましょう」と同席した国枝の引退会見で語った。

 日本政府は、国枝に国民栄誉賞の授与を検討していることを明らかにしている。「自分自身のやってきたことが、最大限に評価されたことは、大変光栄に感じました」と語る国枝は、何かを良くしていこうという姿勢を、これからも変えないだろう。日本の車いすテニス界発展への寄与だけでなく、日本テニス界全体を良い方向へ導いてくれるかもしれない。国枝には、その力が秘められていると思う。

 国枝慎吾のセカンドドリームが今から始まる。


神仁司

1969年2月15日生まれ。東京都出身。明治大学商学部卒業。キヤノン販売(現キヤノンマーケティングジャパン)勤務の後、テニス専門誌の記者を経てフリーランスに。テニスの4大メジャーであるグランドスラムをはじめ数々のテニス国際大会を取材している。錦織圭やクルム伊達公子や松岡修造ら、多数のテニス選手へのインタビュー取材も行っている。国際テニスの殿堂の審査員でもある。著書に、「錦織圭 15-0」(実業之日本社)や「STEP~森田あゆみ、トップへの階段~」がある。ITWA国際テニスライター協会のメンバー 。