今年1月に電撃的引退を表明した国枝さんは、グランドスラムの車いす部門で、単複計40のタイトルを誇るレジェンド。昨年夏、そのトロフィーコレクションに唯一欠けていた“ウィンブルドン単優勝”のラストピースがはまった時、「もう引退かな」の思いが自然とこみ上げたという。

 同時に去年1年間は、「プレッシャーや気負いなく、ようやく相手と向き合う」ことのできた、ほぼ初めてのシーズンだったとも……。彼が背負った重責とは、「車いすテニスを、スポーツとして認めさせたい」という、社会の固定観念との戦いだった。

 
 9歳から車いすを使いはじめ、11歳でテニスと出会った国枝さんではあるが、彼自身も「パラリンピックの存在を認識したのは、2000年のシドニーの時」だと述懐する。2004年アテネ五輪で複金メダルを取るも、あくまで取り上げられるのは「社会面や福祉」のカテゴリー。
“金メダリスト”としての知名度は得ても、自身のプレーを見る人は極めて少ないと感じるなか、「車いすテニスってこんなに面白い。見たらこんなにエキサイトするスポーツ」と周知して欲しいとの情熱を、現役時代は常に抱いていた。

 もちろん、車いすテニスやパラリンピックを通じ、“ダイバーシティ”や「共生社会」実現への願いも強い。ただそれも、「結局、スポーツとして感動を与えたり興奮させるものではないと、そこにも繋がっていかないのでは」との葛藤があった。
「車いすでテニスをやっていると、『えらいね』と言われることがある。でも、目が悪い人が眼鏡を掛けてスポーツするように、足の悪い僕がスポーツをやるには車いすに乗るだけで、特別なことではない。スポーツをやりたいという気持ちに変わりはない。そこを変えないと」

 車いすテニス、あるいは障がい者スポーツへの社会認識そのものを変えたいという渇望が、20年間、彼を突き動かし続けてきた。

 その戦いに一つの成果が得られたと感じたのが、2021年の東京パラリンピック。
「東京パラリンピックが終わってからの反響で、ようやくスポーツとして認められた感覚になった」

 だからこそ翌2022年は、彼にとってプロ転向以降、「純粋にテニスができた」と感じた初めてのシーズンとなる。同時にその開放感が「もう現役も、最後の時期に到来したのかな」という思いにつながった。
「これから上地(結衣)選手や小田(凱人)選手ら若い選手にとって、純粋にテニスができるフィールドが出来たのかなと思うと、環境を整えられて良かったなと思います」

 未踏の荒野を切りひらき、そこが多くの人にとって在るべきステージとなった時、彼はその舞台を去った。

 国枝慎吾の姿の無い、今年1月の全豪オープン——。シングルスドローが従来の8から16に拡張された車いす部門には、男女計9名の日本人選手が参戦した。これは、国・地域の中では最多。28歳の上地は最高世界ランク1位で、現在2位。16歳の小田は、早くも世界の2位である。日本は今や押しも押されもせぬ、車いすテニス大国だ。

 その勢いと隆盛の礎とは、なんだろうか?

国枝さんが残したレガシー

 一つには、国枝さんの拠点でもある “吉田記念テニス研修センター(TTC:Tennis Traning Center)”が、存在感を放つ。千葉県柏市の郊外に創設されたTTCは、開設当時の1990年より、車いす使用者も一般のレッスン生と同様に受け入れた民間テニススクールの草分け的存在だ。国枝さんがテニスに出会ったのも、この地。アテネパラリンピックでダブルスを組んだ齋田悟司も、TTCの同胞だ。

 TTCの車いすテニス発展への寄与を、国枝さんは「すごく大きいと思います」と明言する。
「国内の大会に出ても、他の選手たちが“打倒TTC”に闘志を滾らせていた。TTCが日本のレベルを引き上げたと思います」。

 TTCを頂点とする切磋琢磨が、日本の車いすテニスそのものを底上げした。なお先の全豪OP参戦選手のうち、船水梓緒里や荒井大輔らもTTC出身である。


 もう一つ、なにより大きいのは、“国枝慎吾“というカリスマそのものの存在だ。国枝の後継者と目される小田を筆頭に、前述の船水など、多くの選手が国枝に憧れテニスラケットを手に取った。小田は、骨肉腫を患い、リハビリに励む最中に動画で目にした国枝の姿に、「ヒーロー」を見た。

 船水が車いす利用者となったのは、中学生時。スポーツ万能でソフトボールに打ち込んでいた少女が、「車いすで出来るスポーツを」と色々試した中でテニスを選んだのは、「国枝さんのように、有名なアスリートがいたから」だ。千葉県我孫子市出身で、TTCに通えた地理的利点も大きい。その船水も東京パラリンピック以降、国枝の影響力を一層強く感じるようになったという。
「ジムに行ったり、河原を走ったりしていると、見知らぬ人から『何かスポーツしているの?』と声を掛けられ、『車いすテニスです』と答えると『国枝さんがやっているスポーツだね!』と言われることが増えました。やっぱり国枝さんの存在は、本当に大きいと感じます」

 船水のこのような日常の体験こそが、国枝さんが勝ち取り残したレガシーだ。


 ただその一方で、日本に車いすテニスをする環境が整っているかというと、イエスとは言い難いのが現状だ。船水は国枝さんの母校の高校に通ったが、「テニス部には入らなかった」という。在学中の国枝さんはテニス部には所属しておらず、「前例がないので難しい」と言われたのが理由だった。

 公営のテニスコートにしても、「コートが傷つくから」との理由で、車いすが利用できない場所も少なくない。船水の場合、彼女が高校生だったころの我孫子市の公営コートは「車いす禁止」。幸い、高校のある柏市は車いす使用も認められており、「学生証を持っていたので使えた」という。隣接する行政区でも、使えるところとそうでないところはモザイク状に入り組んでいるようだ。

 
 その我孫子市も現在は、車いす使用が認められたという。状況は徐々にではあるが、変わりはじめてはいる。国枝さんへの国民栄誉賞授与は、その動き促進の旗印でなくてはならない。レガシー継承の一歩は、そこからだ。


内田暁

6年間の編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスとして活動し始める。2008年頃からテニスを中心に取材。その他にも科学や、アニメ、漫画など幅広いジャンルで執筆する。著書に『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)、『中高生のスポーツハローワーク』(学研プラス)など。