「熊本の重岡兄弟」はアマチュア時代から有名だった。2学年違いの兄弟は空手からボクシングに転向し、熊本・開新高校在学中に優大が4度、銀次朗は5度全国大会を制した。

 高校を卒業してプロ入りした銀次朗のアマチュア・レコードは56勝1敗という素晴らしいもの。しかもこれが実質的に無敗であると聞けば、どういうことかと不思議に思うかもしれない。

 というのは、この唯一の黒星の相手は実の兄の優大なのである。当時1年の銀次朗と3年の優大が対戦することになった。兄弟対決を避けるため、試合開始ゴングが鳴ってすぐに銀次朗コーナーが棄権の意思を示して終了したものだ。

プロデビュー後も順調な歩み

 プロデビューしてからも銀次朗は連戦連勝。1年を要さずに4戦目でWBO(世界ボクシング機構)アジアパシフィック・ミニマム級王座を獲得した。その直後に、優大も拓殖大学を中退して弟と同じワタナベジムに入門した。

 大学3年までアマチュアを続けた優大の通算戦績は81勝10敗。全日本チャンピオンにも輝くなど、こちらも立派な実績を手土産にプロに転向した。

 プロでの重岡ブラザースはともに早い出世をかなえた。銀次朗の返上したタイトルを優大が決定戦に勝って継ぐかたちで、とんとん拍子でステージを上げ、どちらもプロ10戦と経験せずに初の世界タイトルマッチを迎えたのは、やはり異例である。

 先に世界に挑戦したのは弟の銀次朗だった。今年の1月、8戦全勝のレコードでIBF(国際ボクシング連盟)ミニマム級チャンピオンのダニエル・バラダレス(メキシコ)に挑んだ。しかし結果は誰にとっても意外な「無効試合」——3ラウンド、バッティングで負傷した王者が続行不可能となり、最終的に無効試合となってしまった。ルールはルールといっても、試合を優位に進めていたのに加えてバラダレスの負傷具合が微妙とも受け取れただけに、銀次朗に同情の声が多く集まった。

暫定王座を賭けた戦い

 あれから3ヵ月、銀次朗には再度IBF戦、同時に兄優大にもWBC(世界ボクシング評議会)で初挑戦のチャンスが巡ってきたのである。

 代々木のリングに上がるまでも一筋縄ではいかなかった。銀次朗はバラダレスが負傷からの回復が見込めず今回は防衛戦に応じられないとのことでレネ・マーク・クアルト(フィリピン)と暫定王座を争うことに。優大のほうは当初はWBC正規王者パンヤ・プラダブスリ(タイ)とのカードが発表されながら、パンヤが4月に入ってからインフルエンザに感染し試合出場をキャンセルしてしまった。急きょ、代役にフィルフレド・メンデス(プエルトリコ)を招いてWBCの暫定王座決定戦がこしらえられたわけだ。

 正規王座戦ではなくダブル暫定王座決定戦という前例のないケースになってしまったが、重岡兄弟がリングでいいパフォーマンスを披露したのは救いだったろう。

 セミファイナルで先に登場した銀次朗は、クアルトとスリリングな強打戦を展開。第1ラウンドにクアルトの右ストレートを浴びてダウンを喫しながらも、右ジャブとスピードのある脚さばきで挽回し、逆に3度倒して9ラウンドKO勝ちを飾った。クアルトをキャンバスに送ったパンチはいずれも左ボディーで、最後は10カウントを聞かせた。

 優大はディフェンシブなメンデスを相手に力みがかなり見受けられたが、スピードのあるパワーパンチで圧力をかけ続け、7ラウンドKO勝ち。試合としては大味だったが、どうしても勝ちたいと、はやりたつ理由はいくつもあった。試合日は優大の26歳の誕生日であり、熊本地震の本震から7年の日。銀次朗が獲って自分が負けるわけにはいかなかった。

 勝った後にこんなことも明かした。試合前の控室でモニター越しに銀次朗の逆転勝ちを観戦し、「銀があんな熱い試合をして、ウルウルきて」しまったのだという。自身のウォームアップも難しかったろう。リング上で二人して晴れてベルトを巻くと、あらたまって語った。

「弟にだけ、直接言ったことはなくて……。小さい頃から20年以上も格闘技をやってきて、こいつが横にいなければいまの俺はない」

 そして肩を組んだ。重岡兄弟の感動的なシーンだった。

 二人の次の仕事は、暫定のベルトを正規のそれに変えることだ。亀田興毅プロモーターはそれぞれのターゲットを8月日本に招き、真の王者決定戦を開催したい考え。「間違いなく俺たち(兄弟)のほうが強い。今からでもやりたいぐらい。もっとバチバチにやってやる」。強気一辺倒のいつものスタイルに戻った優大が宣言している。


VictorySportsNews編集部