文=菊地高弘

見る者を虜にする剛球サウスポー

「自分はこれしかないんで」

 濱口遥大はそう言いながら、大きな瞳を真っすぐこちらに向けて笑った。そして、おもむろに白球を左手に取ると、親指、人差し指、薬指、小指の4本をボールの縫い目にかけ、中指だけ立てるようにして握った。

「この握りで、手首をガチッとロックして、落としていくイメージです。『緩急』というより、『落としたい』という意識が強いですね」

 このボールこそ、神奈川大の剛球左腕・濱口のウイニングショットであるチェンジアップだった。濱口のチェンジアップはプロ関係者をも驚愕させるだけの大きな落差がある。そんな自分の「商売道具」を惜しげもなく公開できる理由は、たとえ握りや感覚を教えても真似することはできないと知っているからだ。

「感覚が他の人とは違うみたいで、『教えて』と言われても僕の思っている感覚と違っていて、説明が難しいんですよ」

 そう言って、困ったような顔をしながら濱口は頭をかいた。

 この投手には、不思議と人を惹きつける魅力がある。150キロに迫る角度のあるストレートと落差のあるチェンジアップがあることはもちろんだが、その投球内容はいつもハラハラ、ドキドキの連続。初回から3者連続四球……なんてケースもありながら、結果的にゲームを作っているミステリアスな一面も。そして、普段は至って穏やかな好青年だが、マウンドでは闘争本能むき出しで打者に吠えまくる。プロの世界で濱口のピッチングは「ハマのファンタジスタ」「濱口劇場」などと形容されるのではないか。

「よく『負けず嫌い』と言われます。子どもの頃から兄とゲームをして負けたら泣いたり……。父も2人の兄も空手をやっていて、闘争本能があるんですかね? そういえば、父も負けず嫌いでしたね。なんでも『これをやったら勝ちやぞ!』って戦いたがる。ゲームをしても、小学生相手でも手を抜かずにやっていましたから(笑)」

 負けず嫌いの父を持ち、3兄弟の末っ子として育った濱口だが、実は中学野球を終えた時点で一度は野球をやめようと考えていた。

「中学の頃は、体は小さくて細いし、外野手をやっていました。ピッチャーも一応、やっていたんですけど、コントロールもないしスピードもない。斎藤佑樹さん(日本ハム)のマネをして軸足を折って投げていたら『(体の使い方が)サイドが合いそうだ』と言われて一時的にサイドスローにしたこともあるんですが、それもパッとしませんでした」

 ちょうどその頃、次兄が大学生になり総合格闘技をはじめたこともあって、濱口もその道に進むことを考えていた。だが、佐賀の県立高校・三養基(みやき)に進んだ濱口は、同じ中学出身だった野球部の先輩から「やることないなら、とりあえず来い」と勧誘を受けた。本人にその気はなかったが、「嫌ならやめていい」という誘い文句に乗せられるがまま、気づいたら野球部にいついていたという。

憧れていた身近な舞台で濱口が躍動する日

©共同通信

 身長も高くなく、野球への意欲もさほどない。そんなごく普通の球児だった濱口に変化が起きたのは、高校入学後のことだった。

「みんな冬の練習で学校に残ってティーバッティングをやったり、自主練習をしていたんです。それで『自分もやんなきゃ』と思って、校舎から下りる坂道や階段を走るようにしたんです。周りにつられたというか、流されまくっていました(笑)」

 そんな走り込みの成果が出て、高校2年時には130キロ程度までスピードが上がり、3年の春には、スピードガンを持っている練習試合の相手チームから「138キロが出ていた」と聞かされる。その数字を聞いて、濱口は「その気になってきた」と笑う。

 得意のチェンジアップの原型が作られたのも、高校時代のことだった。高校2年時の練習試合で鹿児島の強豪・樟南と対戦した際、試合後に監督から「戸田に教わってこい」とうながされた。「戸田」とは、プロ注目の左腕・戸田隆矢のことだ。濱口は1学年上の戸田に走り寄り、変化球の投げ方を聞いた。そこで教わったのが、中指、人差し指を浮かして投げるチェンジアップだった。

「僕は強く印象に残っているのですが、戸田さんはたぶん覚えていないと思います。『誰?』という感じだったんじゃないですかね(笑)」

 このときに教わった握りを改良して、冒頭のような濱口独特のチェンジアップが誕生したのだった。

 ストレートの球速が140キロ台に乗るようになり、次第に県内の注目投手になっていった濱口は、「九州の大学で野球を続けたい」という欲が出てきた。そんな折に、神奈川大の古川祐一監督から誘いがきていることを知らされた。

「最初は断ったんです。九州の大学で、勉強もそこそこでスポーツも強い大学に行きたいということで。でも、監督から『神大も同じような感じだから、一度練習を見に行ってこい』ということで、8月の練習会に参加しました」

 そこで神奈川大の恵まれた環境やチームの雰囲気を知り、また「関東の大学のほうが目立てる」という功名心もあり、神奈川大への進学を決意する。大学1年春から登板すると、2年時にはエースとして大学選手権準優勝へと導き、3年連続で大学日本代表に選ばれた。

 2016年ドラフト会議ではDeNAから外れ外れ1位という形で指名され、晴れてプロ入りを果たした。神奈川大に通っていた濱口にとって、もはや横浜スタジアムは「地元」という感覚だという。

「大学日本代表で山﨑康晃さんにお世話になった関係もあって、よく横浜スタジアムに試合を観に行っていたんです。あの『康晃ジャンプ』を見て、自分もいつかこうなりたい、この舞台でやりたいと強く思いました。まさか本当に指名されるとは思わなかったですけど(笑)」

 大卒のドラフト1位ということで即戦力の期待がかかりそうだが、濱口が一軍の舞台で活躍するには、制球力など越えるべきハードルは多いだろう。それでも、いつか「ハマのファンタジスタ」と呼ばれ、横浜スタジアムの大観衆の目を釘付けにする姿を見てみたいものだ。

(著者プロフィール)
菊地高弘
1982年、東京都生まれ。雑誌『野球小僧』『野球太郎』編集部勤務を経てフリーランスに。野球部研究家「菊地選手」としても活動し、著書に『野球部あるある』シリーズ(集英社/既刊3巻)がある。

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BBCrix編集部