文=大塚一樹

コートサーフェスが作り出すナダルが“土の王者”たる理由

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 相手に一瞬たりともペースを握らせず全試合ストレート勝ち。失ったゲームはわずかに35。グランドスラム初となる、同大会10勝を果たしたナダルの偉業は、テニス史上に残る大記録だ。つい先日チャンピオンズリーグでレアル・マドリーがV10を達成した際にも聞かれた「ラ・デシマ(スペイン語で10度目の制覇)」が、時を置かずして再び世界のスポーツメディアの見出しを飾ることになった。

 ナダルが土の王者と呼ばれるのには、十分な根拠がある。全仏V10は言うに及ばず、連勝記録81、クレーコートでは敵なしの歴代最高勝率を誇るスペシャリストなのだ。全豪・全仏・全英・全米を制するキャリア・グランドスラムに加え、五輪を制するゴールデンスラムを達成しているナダルは、他のコートサーフェスでも十分な実績を残しているが、土のコート、クレーコートでの強さはやはりずば抜けている。

 ナダルはなぜクレーコートに強いのか? ひとつには、ナダルの育った環境に秘密がある。ナダルに限らずスペイン出身の選手、たとえばダビド・フェレールなどもクレーコートを得意としている。テニスファンの間ではよく知られている話だが、スペインにはクレーコートが多い。幼少から土のコートに慣れ親しんでいるスペイン勢は概してクレーコートで好成績を残しているというわけだ。

 テニスコートのサーフェスは、全英に代表される芝のコート(グラスコート)、全豪や全米など世界的に比較的多く見られるセメントやアスファルト敷きをベースにしたハードコート、そして全仏で採用されている土のコート(クレーコート)が代表的だ。これに屋内で行われ、カーペットや人工芝などを採用するインドアコートを加えた4つのコートサーフェスでATPツアー、WTAツアーなど主要な大会が行われている。

 各コートサーフェスにはさまざまな特徴があり、選手たちはサーフェスの特徴にアジャストしながら1年間のツアーを戦わなければいけない。もちろんコートサーフェスによって、得意、不得意がある。

 テニスのプロツアーが肉体的に過酷なことは日本期待の星、錦織圭のスケジュールを垣間見ただけで十分伝わると思うが、世界のトッププロたちは、コンディションの他にこうした環境因子にも対応しつつ、調整してツアーを回っているのだ。

 ちなみにストローク戦に強い錦織は全仏のクレーコートと相性が良い。米IMG育ちの錦織にとってホームとも言うべき全米オープンは、2014年に準優勝するなど、もっとも優勝に近い大会だが、サーブスピードが上がるハードコートは必ずしも有利とは言えない。

スペインの環境と才能が完璧にマッチング! 土魔神・ナダルの誕生

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 全仏が採用する赤土のクレーコートは、他のコートに比べて球足が遅く、バウンドが高くなる。足下を取られることも多く、フットワークのグリップもしづらい。

「鶏が先か、卵が先か」。スペインのクレーコートで育ったナダルのプレースタイルは、必然的にベースラインの後方に待機して相手と打ち合い、フットワークを使ってどんなボールでも拾いまくるという、クレーコートにもっとも適したものになった。

 後方待機と言っても、ナダルのテニスは守備的ではない。クレーコートで磨き上げたショットは、ボールを擦り上げるようにして放たれる。ナダルのボールはそのどれもが異常な回転数を誇るトップスピン。この回転がボールに深さと重さを生む。相手コートの深くに突き刺さる軌道は「エッグボール」と呼ばれ、ナダルのテニスはクレーコートに限らず、その時代の潮流を作り出した。さらに滑りやすい足下を逆手に取ったスライドステップは、ナダルの守備範囲を大きく広げ、これもまたトップ選手の必須技術となった。

 ナダルは、こうしたクレーコートに最適なテニスを実現するために不可欠な無尽蔵なスタミナを備えていた。生まれ持った適性と環境が、ナダルを土のエキスパートたらしめたのだ。

 単にナダルが土に強いと言うだけなら、10勝以前にも散々論じられていたことなので改めて話題にすることもないのかもしれない。今回の勝利が尊いのは、ナダルが一度は「終わった選手」とみなされてから、これだけ圧倒的な力で「健在ぶり」を見せつけたことだ。

 オールラウンダーの最強王者、ロジャー・フェデラー(スイス)に対抗馬の超人・ナダルの2強時代から、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)、アンディ・マレー(イギリス)を加えたビッグ4の時代。テニス界ではしばらく「深く、重く」がトレンドとなっていた。終わりそうで終わらないビッグ4の時代はかれこれ10年以上も続いていてテニス界の特異点とも言うべき状況だが、35歳のフェデラーも31歳のナダルも、何度かの浮き沈みを経験している。特にナダルは、2016年の全豪1回戦敗退、シーズン終盤には左手首のケガで欠場を余儀なくされるなど、「今度こそ一つの時代が終わった」と言われた。

 ナダルが「終わった」とみなされた理由には、そのプレースタイルの限界を指摘する声もあった。「深く、重く」がもはや当たり前になり、そこからさらにポジションをベースラインより前に置く、早い展開のテニスが主流となった。

 ビッグ4の他の選手たちが、深くて重いボールに対しても果敢に前に出て、相手のプレー時間を奪う早いテニスへ順応していく中、正反対のテニスで勝ち続けてきたナダルは対応が後手に回った。そのナダルが、今大会で明らかな進化を遂げていたのだ。

 まずいままでは左右のカバーに遣われていた強靱な足腰、驚異のフットワークが前後にも効果的に活用され、ネットプレーが格段に進化した。さらに、深いボールに混じって、鋭角に切り込む浅めのクロスが要所で決まる。相手のフットワークを事実上無力化するスーパーショットが次々に生まれた。「このテニスならクレーコート以外でも・・・・・・」そんな期待を誘うナダルの復活劇だった。

環境で選手を作ったスペイン、日本はどうか?

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 スペインが国内に多く存在するクレーコートによって、あるアドバンテージを持った選手たちを育てたのとは対照的に、日本ではジュニア育成の問題点のひとつにコートサーフェスが挙げられている。時代の折々に何度かのテニスブームを経験してきた日本のテニスコートはけっして少なくない。街を歩いていても、テニスで汗を流すシニアの姿を頻繁に目にするし、公共のテニスコートも数多く存在する。テニスが身近にある環境はすでに持っているのだが、問題はそのほとんどが、砂入り人工芝のコートだということだ。

 短い人工芝に砂を混ぜたコートは、雨に強く、管理がしやすいという理由で日本中に普及した。実はこのコートを採用しているのは、オーストラリア、ニュージーランドなどごく一部で、4大大会はもちろん、主要大会では採用されていない。オーストラリアではジュニアの育成を妨げると協会主導でその数が減っているという。

 日本でも徐々にコートサーフェスを意識した練習環境が議論されるようになってきたが、公共施設では特に、硬式テニスだけでなく、軟式テニスにも対応しなければいけないという事情もある。

 多様なコートサーフェス、少なくともグランドスラムに準ずるサーフェスを経験することが育成段階において重要なことは容易に想像がつく。スペイン勢だけでなく、スペインに本拠を置く日本人選手、ダニエル太郎が、下がってエッグボールを打つプレースタイルで躍進を遂げたことから、練習環境がプレースタイルに大きな影響を与えることは間違いない。

 錦織は13歳でIMGテニスアカデミーに渡ったため、この時点からはあらゆるサーフェスでトレーニングを積むことができた。しかし、それ以前はどうだったか? 長年かけて培ってきた環境を劇的に変化させるのは難しいが、コートサーフェスを含め、後に続く日本人選手たちの環境を整備することが、“ポスト錦織”の台頭、日本人のグランドスラム制覇のチャンスを広げるために必要不可欠なピースではないだろうか。

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大塚一樹

1977年新潟県長岡市生まれ。作家・スポーツライターの小林信也氏に師事。独立後はスポーツを中心にジャンルにとらわれない執筆活動を展開している。 著書に『一流プロ5人が特別に教えてくれた サッカー鑑識力』(ソルメディア)、『最新 サッカー用語大辞典』(マイナビ)、構成に『松岡修造さんと考えてみた テニスへの本気』『なぜ全日本女子バレーは世界と互角に戦えるのか』(ともに東邦出版)『スポーツメンタルコーチに学ぶ! 子どものやる気を引き出す7つのしつもん』(旬報社)など多数。