箱根のハイライトといえば山上り。かつて東海道を往く旅人を苦しめた難所は、箱根駅伝を箱根駅伝たらしめる代名詞としてそこを走るものに輝きを与えてきました。“花の2区”というエース区間があるにもかかわらず、ドラマチックな展開が期待できる激坂を含む往路5区が注目を集めるのは、後日放送される『もうひとつの箱根駅伝』が大好きな日本人ならではの現象かもしれません。

「冷静に過去を見てみると、歴代のいわゆる“山の神”たちは、実業団に進んだ後は記録的にも私たちが期待するほどの活躍を見せていませんよね。神野選手の未来を決めつけるのは早計ですが、かつて山上りで印象に残った選手について『あの選手どうしたのかな?』と思っている人も多いのではないでしょうか」

こう話すのは『マラソンは上半身が9割』などの著作で知られる理論派ランニングコーチ・細野史晃さん。学生時代までとトレーニングが変わるからなのか? 箱根駅伝だからこそ出る襷マジックなのか? はたまた、本人の選手としてのピークが過ぎているからなのか? 山の神が箱根後に周囲の期待ほど活躍できない理由についてランメカニズム、科学的なアプローチから検証していただきました。

(構成・大塚一樹)

”山の神”は山上りという特殊環境に特化したスペシャリストである

(C)Kyodo News/Getty Images

歴代の“山の神”は別格ですが、神という称号は得られなくても、5区で活躍する選手はいます。そうした選手を含めても、関東インカレなどのトラックレースやその後のマラソンを含めたロードレースなどで活躍している選手はほとんどいません。これは、“山上り”に注目が集まり、そこを走る選手たちに期待を寄せる多くの人たちになかには、こうした現象に疑問を持つ方もいるでしょう。

傾斜地をひたすら上っていく箱根の往路5区はランニングコーチの目から見ても、非常に特殊な区間と言えます。この区間で必要とされる技術は走力だけではありません。最も重要なのは「山上りに適した走り方ができるかどうか」という点で、ここに走力や耐久力、精神力という要素が総合的に関わってきます。
山上りに適した走りとは何なのかについては後に詳しく述べますが、山上りは極端に言えば「階段上りで20キロ強の距離を走り続けられるかどうか?」を競う区間なのです。

実は5区で起用された選手の中で、純粋な走力が高い選手が活躍した事例はあまり多くありません。もちろん、走力の高い選手、トラックでの持ちタイムがいい選手が好走することもありますが、坂を駆け上がりながらごぼう抜きを演じた選手や、“山の神”たちは、その劇的な活躍に反して、その後の成績を残せず苦しむケースが多いのです。

山上りが劇的すぎるゆえの悲劇? 過剰な期待感の正体

5区の特性に注目すると、もう一つ異質な点が浮かび上がってきます。それは、山上りの区間は、区間トップと最下位のタイム差が大きく開くということです。初代山の神、今井選手が登場する以前の記録を見ても、区間トップと最下位のタイム差は平均で7〜10分程度の開きがあります。これは他の区間と比べるとかなり大きな差と言えます。当日のコンディションが大きく影響を与える箱根では、脱水症状や低体温症などでタイム差が大きく開くこともありますが、5区を除く区間は概ね3〜5分の差に収まっています。この数字を見ると5区がいかに特殊な区間だということがわかっていただけるのではないでしょうか。
さらに“山の神”が走った年はさらに差が広がり、区間トップと最下位の差は10分〜12分にもなるのです。
これだけ大きなタイム差を作る5区は、箱根駅伝の優勝争いを大きく左右する区間になります。箱根を象徴する峠道を快走し、他大学の選手を次々に抜いていく山の神の姿はチームの士気大きく高める効果も十分。負荷のかかる坂道で顔をゆがめながらもスピードを上げていくランナーの姿は、見ている私たちにも強烈な印象を残します。限界を突破していく姿は沿道で声援を送る観衆やテレビに釘付けになっている視聴者の心を惹き付け、その印象が「この選手なら世界での舞台で、マラソンでも活躍してくれるのではないか」という思いを抱かせます。しかし現実はそう単純ではありません。

「山の神なのに」ではなく「山の神だから」活躍できない?

「いやいや、山上りができるような強い選手ならどんな環境でも速く走れるはずだ」
そう思われる方も多いと思いますが、彼らは「山」の神であって、「平地」の神ではありません。近年の箱根ランナーの例で言えば、佐藤悠基、村澤明伸(ともに東海大)、大迫傑(早大)、上野裕一郎(中央大)、竹澤健介(早大)、設楽悠太・啓太(東洋大)、村山紘太(城西大)謙太(駒澤大)などは、山の神との対比から“平地の神”とでも呼ぶべき存在です。
この中にも山上り区間を走った選手はいますが、山だけで特別な実力を発揮したわけでなく、むしろ平地で記録と結果を残しています。

ランニングのメカニズムについては少し説明が必要でしょう。「走る」という動作を考えると、ドラマ『陸王』で話題のシューズが目に付く着地や、脚などの下半身に意識が行きがちです。脚を素速く動かすのが速く走ることにつながると思っている人も多いと思いますが、実際は脚だけを動かしても速く走ることはできません。
物理的に“走り”を分析すると、体重のおよそ6割を占める上半身の使い方がより重要になってきます。具体的には上半身の重心を先に前に移動させて、その重みに引っ張られるようにして推進力を得ていくのが効率の良い走り方なのです。

山の神やそれに準じるような山上りのスペシャリストたちは、それぞれの個性はありますが、重心移動のベクトルが極端に上に向いているという特徴があります。

今井選手は地面に対して力を押し込んで、その反発力をもらいながら進んでいくタイプです。反発力を上方向に変換し「跳ねるように」走っています。今井選手の走りは、特に「上へ」の意識が強いので、彼が初めて“山の神”の称号を得た選手だというのは走りの面から見ても納得です。

柏原選手は今井選手の走りの地面反力を強化した走りです。力強い腕振りで地面を押し込むより力よりも身体を持ち上げる力を引き出しています。

当たり前ですが、急勾配の上りで平地と同じように走っていては地面への着地が早くなり窮屈な走りになってしまいます。歴代の山の神たちは概ね鉛直方向へのパワーが強く、かなり極端に伸び上がるような走り方をします。
問題なのは、意識して使い分けているわけではなくその選手が元々持っている適性として走り方が「山に合っている」から速いという点でしょう。これでは箱根以外、山上り以外では実力を発揮できないのです。

その点では、神野選手には“平地の神”になれる素養が見られます。神野選手は山上りでは身体を持ち上げる方向に力を働かせ、平地ではまっすぐ、下りでは流れに逆らわず、上り、平地、下りにそれぞれ必要なベクトルに力を変動させて走っています。力の方向性に合わせて走れる環境適応型のランナーだけに、山上りに特化した選手たちよりも、たとえば起伏のあるマラソンコースなどでも活躍が期待できそうです。

”山の神”の才能を箱根で終わらせないために

(C)Getty Images

柏原選手がその特徴を遺憾なく発揮し、絶対的な“山の神”としてメディアに大きく取り上げられていた期間を見ても、平地で効率的な走り方ができていた佐藤悠基選手、大迫傑選手はトラックでは柏原選手を圧倒する記録を残していました。少しでも大学の陸上シーンを気にかけていた人たちの間では自明なことなのですが、多くの人が注目する一大イベント、箱根駅伝で「奇跡を起こす」柏原選手ばかりに注目した報道の在り方、メディアの姿勢にも大きな責任があると考えます。
駅伝に注目が集まることが陸上界を盛り上げることにつながるという考えに異論はありませんが、間違った理解を植え付け、さらに選手にも過剰な期待をかけてしまうようでは、強化という面ではマイナス要素が多すぎるのではないかと思います。

初代・山の神、今井正人選手は苦しみながら2015年に北京で行われた世界選手権で日本代表としての出場権を得ました(大会は髄膜炎のため欠場)。しかし、もっと早く日本代表として活躍し、世界と戦う姿を想像した人が多かったのではないでしょうか。記録と記憶で今井選手を圧倒した二代目・山の神、柏原竜二選手への期待はさらに大きなものだったはずですが、みなさんご存知の通り柏原選手は2017年に27歳で引退。故障に悩まされた末の決断で、新たなスタートを切っている彼の今後にエールを送りたいと思いますが、山の神に対する過度な期待やプレッシャーが彼らの成長を鈍化させる要因になった可能性は否めません。ランニングフォームの特性や「なぜ山であれだけ速かったのか」というメカニズムを適切に理解する機会があれば、もしかすると未来は違っていたかもしれません。陸上界には“山の神”を過度に持ち上げるのではなく、適性や才能をうまく活かすような育成方法が、メディアやファン、視聴者側には“山上りだけ”を見てすべてを語るような風潮をクールダウンさせることが必要ではないかと思います。

三代目・山の神、神野大地選手には現在も大きな注目が集まっています。すでに述べたように走りの面から見ても神野選手は歴代の山の神たちにはない特徴があり、世間の期待を「買い被り」で片付けてしまうわけにはいかない魅力を秘めています。しかし、神野選手であっても“山の神”のまま長距離選手、マラソン選手にステップアップしていくのは容易ではありません。本人の努力はもちろんですが、周囲の過度な期待が彼らの努力と成長を妨げないようにすることも大切です。

“山の神”から期待の長距離選手、日本を代表するマラソンランナー、そしてメダル争いのできる選手へ……。育成の仕組みや日本では大きなウェイトを占める駅伝の在り方など改善すべき点はたくさんありますが、“山の神”の健全で順調な成長が日本の陸上界、長距離界の今後を切り拓いていくのは間違いないでしょう。

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細野史晃

著者プロフィール 細野史晃

Sun Light History代表、脳梗塞リハビリセンター顧問、一般社団法人甲子園スポーツネットワークアドバイザー。科学的側面からランニングフォームの分析を行うランニングコーチ。解剖学、心理学、コーチングを学び、それらを元に 「楽RUNメソッド」を開発。2018年1月には3冊目の著書となる『マラソンセンスとランニングIQ』を刊行。