これまで大坂を知らなかった人まで突如これほど騒ぐのは、もちろん彼女が『日本人』という前提があるからだ。その前提に違和感を抱いた人も多いのは確かだが、そういった感覚は置いてきぼり、あるいはすっかり麻痺してしまった。
確かに存在したはずの違和感の正体は、「2つの生みの国と、育ての国」をバックグラウンドに持ち、日本語ではなく英語を話す大坂と、一般的な日本人との距離感だろう。2つの生みの国------日本以外にもう一つ、大坂の快挙を「我々の誇り」と歓喜している国がある。カリブ海に浮かぶ島国、ハイチだ。そこでは大坂のことを「ハイチ系アメリカ人の父と日本人の母を持つハーフ」などとは紹介しない。一言、「ハイチアン・ジャパニーズ」。今回の優勝を受けてジョブネル・モイーズ大統領も祝福のコメントを出した。
「我々のなおみに、おめでとう、そしてありがとうと言いたい。彼女のおかげで、今日我々はとても誇らしい気分です。あなたの大きな喜びをハイチ国民はともに分かち合っています。これからも夢を叶え続けてください。そして、あなたの世代の若者たちに道を示してください。あなたの成功がこれからも続きますように」
言語の性質の違いはあるが、たとえば日本のトップの誰かがコメントを出しても「私たちのなおみさん」とは言えないし、言っても実感は伴わない。こういった表現ができるのも、彼らが全米Vで急に騒ぎ出したわけではないからだ。今年3月、インディアンウェルズでのBNPパリバ・オープン優勝で人気に火が付いたが、それ以前からもすでに広く認識されていたという。
昨年10月、大坂は両親とともに初めてハイチを訪れている。国の面積は北海道の3分の1ほどの、カリブ海に浮かぶ小さな島国。そこではハイチ・テニス連盟主催の記者会見も行なわれた。なお、ハイチ系アメリカ人のテニスプレーヤーはいるが、ハイチには現在男女ともに世界ランカーはおらず、フェドカップにもデビスカップにも参加していない。そんなハイチにおいて、テニスというグローバルなプロスポーツでトップに駆け上がる大坂はまさにスターだ。
昨秋の訪問で大坂は「20年前に両親が建てた幼稚園に行った」とSNSで報告した。一家が大坂に住んでいたとき、父親のレオナルド・フランソワさんが日本の友人たちとともに立ち上げたボランティア・グループの活動としてハイチに建設した幼稚園のことだった。
ハイチの公用語であるフランス語に関しては、少なくとも1年前は「『ウィ』しか言えない」とおどけていたが、こうした家族ぐるみの活動を通してハイチとの絆は強くなった。大坂の「ハイチは美しい国だった。言われているような悪いイメージは現実とは違う」という言葉は、ハイチの人々の宝物だろう。
約2カ月後には、ドナルド・トランプ大統領がハイチやアフリカ諸国のことを「汚い便所のような国」呼ばわりしたが、そのニュースの1週間後、全豪オープンで大坂は自らのハイチというルーツを積極的にアピールしてみせた。3回戦で地元 オーストラリア期待のアシュリー・バーティを破ったあとのオンコート・インタビューでのことだ。「アメリカと日本という二つの国を代表していること」についてコメントを求めたインタビュアーに対し、「私のお父さんの故郷はハイチだから、実際のところ私はこれだけ代表しているんです」と指を3本立てながらにっこりと笑った。
全米オープン中には、日本とアメリカとハイチ、それぞれの国の文化の好きなところを聞かれてこう答えている。
「日本はとにかく全部好き。食べ物もおいしいし、みんないい人ばかり。クールなものがいっぱいあって、サイコーのロングバケーションに来た感じ。アメリカは私にとって拠点だし、フロリダはとてもいい練習環境だと思う。ハイチの人たちは本当にみんなポジティブ。それに、互いに友達になれば相手のためになんでもしてくれます。お父さん側の家族がみんなそんな人たちばかりでうれしい」
3歳から移り住んだアメリカは〈テニスプレーヤー〉としての自分を育んだ大切な国、そして〈プライベート〉であらゆる嗜好に完璧にマッチする日本、自然と溶け込めて強さをくれる〈ファミリー〉のようなハイチ。どれも大坂が大坂であるために欠かせないものだ。
ところが、日本の人々はどうしても日本との関連性をより多く知りたがる。メディアはそれに応えたつもりの報道をし、『日本人』をことさらに強調する。日本食や日本語、日本の音楽にマンガに洋服……そういう具体的な話を聞くのは楽しくもあるが、いちいち小さなエピソードをほじくり出さなくても、大坂の中の『日本人』は全米オープンのあの表彰式の姿を見ただけで十分ではないか。
「皆さんがセリーナを応援していたのはわかります。こういう終わり方でごめんなさい。でも、試合を見てくれてありがとうございます」
謙虚さ、律儀さ、慎み。彼女が見せたのは、多くの日本人が美徳と心得るもの、それでいてなかなか実践できないものだった。それを世界中が注目するあの大舞台で、会場を埋めたセリーナ・ウィリアムズ・ファンからのブーイングに圧倒される空間で、20歳の女の子が自然に湧き出る感情のままに表現したのだ。
最後に「男女を通じて日本選手として初めてのグランドスラム・チャンピオンになりました。あなたにとってどういう意味がありますか」と聞いたインタビュアーに対しては、質問とは無関係にただ言いたいことを伝えた。
「セリーナと全米オープンの決勝で戦うことも私の夢でした。それを叶えることができてとてもうれしく思います」
そしてセリーナのほうを向いて、か細い声で「サンキュー」と言ってペコリとお辞儀をした。日本語が十分に話せなくても、典型的な日本人には見えなくても、あのとき私たちの耳には「サンキュー」ではなく確かに「ありがとうございます」と聞こえていた------。
あれから1週間も経たぬうちに、ウェア契約するアディダスと年間850万ドル(約9億円)の契約を交わすというニュースが流れた。現在の4年契約は年末に切れるが、この更新により契約額は少なくともこれまでの20倍には膨れ上がったといわれる。また、同社が女性アスリートとかわした契約では史上最高額。大坂のグローバルな市場価値の高さは、これからも次々と数字になって表れるに違いない。
無理に日本人になる必要などない。人種や国籍の柵など超えたありのままの『プロテニスプレーヤー・大坂なおみ』として、これからもそのユニークで力強いアイデンティティを高く遠くへと羽ばたかせてほしい。
大坂なおみは日本人なのか?生みの国と育ての国からみる大坂のアイデンティティ
全米オープンでグランドスラム初制覇を果たした大坂なおみの来日で、ワイドショーを中心に国内メディアが情報収集合戦を繰り広げている。謎めいたところも魅力だったが、「日本人として史上初のグランドスラム・シングルス・チャンピオン」となれば、謎めいたままでもいられない。その素顔が紹介されるたびに、ゴージャスなルックスとお茶目な性格や天然ぶりで人気はぐんぐん高まり、あらゆる業界を巻き込んだ突然の〈なおみ旋風〉が吹き荒れている。(文=山口奈緒美)
写真:共同通信社