その「INEOS 1:59 Challenge」と題された特別レースは、先導する電気自動車が1キロ2分50秒という理想的なペースをほぼ誤差なく維持しながら、緑色のレーザーを地面に照らした。それを走るべき目印としてペースメーカーが交代でキプチョゲの前後を固めるように走り、空気抵抗を減らした。キプチョゲへのドリンクの受け渡しは自転車を通じて行われ、時間、体力のロスは最小限に抑えられた。そのお膳立てに「No human is limited(誰にも限界はない)」との信念を持つ男が、前人未到のタイムで応えた。

マラソンにおける空気抵抗の影響については諸説あるが、山地啓司氏の「マラソンの科学」(大修館書店、1983年)によれば、先頭で体に受ける空気抵抗に要するエネルギー量を100パーセントとして、計算上、それが先頭ランナーの後方1メートルであれば、前の選手が風除けとなり、空気抵抗に対するエネルギー量の約80%も軽減され、後方2メートル後ろならば、約40%軽減されるという。

タイムが出やすい工夫が凝らされた特殊な補助を受けてのレースだったため、国際陸上競技連盟の公認記録とはならない。とはいえ、42・195キロを人類で初めて、1時間台で駆け抜けたという事実にはなんら変わりはない。「2時間の壁」が壊されたことは、大きな意義があるだろう。

まずスポーツの世界では1度でも壁が破られると、その流れが続くことが多い。最も身近な分かりやすい例が日本の男子100メートルだろう。桐生祥秀(日本生命)が17年の全日本インカレで日本人で初の9秒台となる9秒98をマーク。伊東浩司氏が当時の日本新記録10秒00を出した98年以来、日本勢の悲願だった「10秒の壁」を突破した。翌年の18年こそ9秒台は出なかったが、今年19年はサニブラウン・アブデル・ハキーム(フロリダ大)と小池祐貴(住友電工)も9秒台を出した。長年、越えられなかった壁が壊れたことで、壁への意識が薄れて、結果的に後が続いた。

これと同じように世界のマラソン界も「2時間の壁」というものが消え、1時間台のタイムが続く可能性は十分にある。ただでさえ今、マラソン界は高速化が進んでいるのだ。9月29日のベルリンマラソンではケネニサ・ベケレ(エチオピア)が2時間1分41秒という驚きのタイムを残した。04年アテネ・オリンピック、08年北京オリンピックと男子1万メートル2連覇などの偉業を成し遂げてきたトラックの英雄は37歳にして、世界記録まであと2秒に迫った。女子でも10月13日のシカゴマラソンで、ブリジット・コスゲイ(ケニア)が2時間14分4秒を出し、16年ぶりに世界新記録を更新した。従来の記録の03年のポーラ・ラドクリフ(イギリス)の2時間15分25秒を、1分以上も塗り替える大記録だった。

海外の代理人によれば、キプチョゲの「2時間切り」という偉業は多くのトップランナーを勇気づけたという。それは、さらなるスピード化の呼び水となりそうである。

またマラソンの記録の進歩で見逃せないのが、シューズのハイテク化だ。現在は世界トップランナーが多く契約または愛用しているのがナイキ社の厚底シューズだ。もちろんキプチョゲ、ベケレ、コスゲイも履いている。靴底には特殊なカーボンファイバー製の板が内蔵され、それがバネと同じような効果をもたらす。また「軽さ」「クッション性」を兼ねるように航空宇宙産業で使う特殊素材も使用され、ランナーのエネルギー消費が抑えられるようになっている。キプチョゲが使用した最新モデルの1足は、旧モデルを上回る性能を持っている模様だ。キプチョゲが履いていたタイプとは少し異なるが、日本選手も大迫傑(ナイキ)、設楽悠太(ホンダ)らがナイキ社の厚底シューズを着用し、好記録を出している。

ただ国際陸上競技連盟のルールでは「競技に使用されるシューズはすべてのランナーが合理的に利用可能」「不公平なサポートや利点が提供されるものであってはならない」などとある。現在、国際陸上競技連盟は不正な補助具として規制の対象にすべきか検討しているのも事実だ。

スポーツの記録の進化と道具の進歩は切り離せない。アディダス、アシックスなどナイキのライバル社も開発に今後、力を注いでくるだろうから、最新の優れた道具の開発合戦も過熱するだろう。それは、また選手のパフォーマンスを向上させることにも直結する。

世界記録保持者のキプチョゲの記録が人間の新たな可能性を示し、同時に道具の開発も進んでいる。マラソン界の高速化の波は止まりそうにない。そう遠くない未来に、公認記録として2時間切りの金字塔が打ち立てられそうだ。


星野泉