■レスリング界の現状
現役のレスリング選手の名前を何人知っていますか?
その問いかけにすらすらと答えられる人は多くないだろう。
では、レスリング選手で誰を知っていますか?ではどうか。
吉田沙保里、伊調馨、浜口京子…。おそらく正反対の反応が返ってくる。ただ彼女たちは既に第一線での活躍を離れた。吉田はバラエティー番組などでの露出が多く、レスラーという出自とのギャップから売れっ子になっているが、反比例して競技自体との関わりは薄くなってきている。レスリングという競技は、“吉田沙保里がかつて取り組んでいたスポーツ”という位置づけの方がしっくり来る人が多いのではないか。
では、現在のレスリング界の状況は?
現役であれば、男子グレコローマンスタイル60㌔級で昨年の世界選手権を制した文田健一郎、女子ではリオデジャネイロ五輪金メダルの川井梨紗子が顔役になる。リオで女子は金メダリストを4人も生んだ。それから比べると、絶対的な金メダル候補は少なくなった。今後はアジア予選、世界最終予選で出場枠をかけた戦いが待つ。
現在の内定者は18階級中8階級。その7、8人目を決める戦いが3月8日に行われた。世界選手権の5位以内で出場枠は獲得していた2階級で、一発勝負のプレーオフで代表が決定した。リオで金メダリストとなった女子68㌔級の土性沙羅なら、名前を聞いたことがあるという人も増えるだろうか。彼女が有望株の大学生レスラーを破って五輪行きを決めたが、このような動向を知る人は少ないだろう。4年に一度のビッグイベントに向けた興味関心を喚起できていない現状を把握し、問題視すらできていない。それが今日のレスリング界だ。
■そもそも「無観客」だったプレーオフ
プレーオフを控えた3月2日、報道陣向けに1枚のリリースが流れた。
「当初は報道の皆様への公開を予定しておりましたが、『新型コロナウイルス感染拡大防止』の観点から、味の素NTCへの入館者を最小限に抑えての運営とならざるを得ない状況になっております」
そう始まる発表では、報道の数を規制するためTVが日本テレビ1社、新聞、ネットメディアは通信社が代表として取材する方針が一方的に伝えられた。国によるスポーツ・文化イベントの自粛要請期間に重なるため、致し方ない措置にもとれるが、Jリーグ、Bリーグなどのスポーツ団体の自粛の仕方と異なるのは、そこに観客への言及がないこと。
なぜなら、そもそもこのプレーオフ自体が観客を入れて開催することになっていなかったから。「無観客」などの判断を文言に加える必要がなかったのだ。リオ五輪の金メダリストが出場する一世一代の勝負の場であるのに。(最終的には報道陣には原則非公開となり、テレビ局用に代表撮影がなされ、試合はツイッター、インスタグラムで中継された。)
会場となっている「味の素NTC」とは、ナショナルトレーニングセンター(NTC)のことで、日本におけるスポーツ強化の拠点であり、レスリングもそこに365日使える6面マットの部屋を持つ。ここで多くの時間を費やし、世界の頂点を目指す鍛錬に明け暮れている。ただ、この施設は観戦用にはできていない。入館できるのは選手、関係者で、取材側も事前の申請がなければ入館は厳しく管理される。そもそも最初にそこを決戦の場に選んだのはなぜか。おそらく施設代がかからないことが1つの理由だろう。
■「女子バブル期」が競技の後進性を決定づけた!?
このプレーオフが決定したのは、世界選手権の5位以内で出場枠を取りながら、昨年末の全日本選手権で優勝を逃した選手と、その優勝者を戦わせて優劣を決めるため。その全日本選手権も駒沢体育館で無料で開催されていたが、その理由も施設代だった。「有料にすると施設代が高額になる。無料だと費用を抑えられるから」というのが協会側の説明。全日本選手権、春先の全日本選抜選手権の国内二大タイトルは以前から無料が原則だった。伝統で、現在の体制もこれを踏襲していると思われる。この流れの中にプレーオフが「無観客」であることも位置付けられる。そこに協会幹部は疑問を挟まない。五輪金メダリストの運命の日、それはスポーツエンターテインメントとして「おいしい」コンテンツだろう。1対1の一発勝負は特に分かりやすい。
ただ、そこで露出を増やす、収益を得るという構造は日本協会には皆無だ。これは04年に女子競技が採用され、吉田、伊調らが登場し、メディアに広範した時期から変わらない。むしろ、その「女子バブル期」がこの競技の後進性を決定づけてしまったとも言える。オリンピックへの正式採用に伴う突然の女子選手の登場はメディアを沸騰させた。特にテレビはそう。吉田というサービス精神旺盛でしゃべりも巧妙な「キャラ立ち」しているアスリートはとても貴重で扱いやすかった。反対にその吉田と太陽と月のような伊調の存在もあった。さらに、「気合だー」の叫びとともに家族露出もOKの浜口京子もそろった。女子選手は扱いやすい素材として重宝された。
これには日本協会に伝統的に残る「八田イズム」の残滓もあるかもしれない。日本レスリング界の創始者とも言える故八田一郎会長は、半世紀前にしてメディアコントロールに長けていた。64年の東京五輪の前に上野動物園まで選手たちをつれていき、ライオンとにらめっこさせるなどの「パフォーマンス」で関心を引きつけたことは有名だ。その精神は、女子バブル期にも通じるものがあった。露出が多いので、当然目に触れる機会も多い。冒頭の「レスリング選手を知っていますか」という質問に、吉田らの名前が登場するのはこのためだ。そこで、あたかもメジャー競技のような〝勘違い〟を協会が起こしても不思議ではなく、もともと公益性が強く残るアマチュア競技団体にあり、バブル期は臨時収入の感覚だったのかもしれない。ただ、現在のマットにその稼ぎ頭はいないのは事実だ。
現役選手が、引退した選手より知られていない、知られる兆しがない。その状況に危機感はないのか。それは競技自体を永遠のマイナー競技として享受してしまっているように思える体制がある限り、続くだろう。「マイナー競技ですからね」。よくレスリング関係者として話すと出てくる言葉。謙遜というより、自嘲という意味合いが強くにじむその言い回しは、ある意味で「井の中の蛙」であることを自分たちで許してしまっている感覚が如実だ。
■老舗競技の未来は
いま、東京オリンピックを前にして、各競技のトップ選手は判で押したように「東京で金メダルを取って、もっと競技を知ってもらいたい」と口にする。マイナー競技からの脱却の起爆剤として祭典に期待を寄せるが、その意欲はあくまでも個人にとどまる。競技団体としてポスト2020を考えている団体は多くはない。中には体操の内村航平のように「プロ宣言」をして競技普及に乗り出すアスリートもおり、それには組織の支えが欠かせないはずだが、それがなきに等しいのが現状だ。多くの団体は国からの助成金を原資に活動しており、独立採算で収益を上げる構造にはなっていない。そこに不安を隠さない選手も少なくはない。
アスリートにはユーチューバーとなり、自ら発信し収益を得ようとする動きも出てきている。ただ、その母体となる統括組織の基盤、未来への戦略が皆無ならば、そのような意欲を持ったアスリートは流出していき、残るのは「しょせんマイナー競技ですから」の一言を口にするような選手たちだろう。特に東京オリンピックを終えれば、老舗競技は今後について否応にも課題に直面していく。選択肢が広がる中での競技人口の減少、露出メリットの低下によるスポンサー減などは容易に想定できる。そこに向けた対策を、オリンピックを前にしてどれほどの団体が考えているだろうか。老舗中の老舗のレスリングのいまを見れば見るほど、明るい未来は見えてこない。