すべては谷岡学長の怒りから始まった

「私の怒りは沸点に達しました」

記者会見を開いた至学館大学の谷岡郁子学長が言った。3月15日のことだ。それはどうやら、前日フジテレビ『バイキング』で言った、私の発言に向けられたものだった。

女子レスリングのパワハラ問題が報じられる中、「告発した側の田南部力コーチにも、告発された栄和人コーチにも、2020東京五輪を目指すレスリング選手のお嬢さんがいる」と指摘した。関係者や熱心なファンはもちろん知っている事実だが、テレビで指摘したのは私が最初だったかもしれない。それを聞いて谷岡学長は憤慨した。

開催が迫っていたワールドカップ高崎大会の日本代表に栄コーチの長女・栄希和さんが選ばれていた。昨年の日本選手権でベスト4に入れなかった希和さんが選ばれたことに一部で疑問の声が上がっていた、いくつかの中傷も寄せられていたらしい。それで希和さん自身が深く悩み、「辞退すべきか」と学長に相談をしていた。谷岡学長は、1月のヤリギン国際大会で準優勝を飾った希和さんに「自信を持って出場すればいい」と励ましていた。その矢先だから、お嬢さんの存在を指摘しただけで不愉快になられたのだろう。それが、間接的ではあるが、谷岡学長と私の接点の始まりだった。

「そもそも伊調さんは選手なんですか?」

強烈な表現が日本中を驚かせ、憤らせ、谷岡学長は伊調馨さんを案じる日本中の人たちの敵役になった。その後は連日、私が出演する番組でも谷岡学長批判が続き、発言者のほぼ全員が「谷岡学長こそがパワハラそのものだ」といった感想で一致していた。私も、谷岡学長を非難するひとりだった、いやその急先鋒だったと言うべきだろう。ところが、出演者たちが日増しにエキサイトし、「そもそも谷岡さんは学長なんですか?」といった発言が大受けする雰囲気の中で、私は次第に批判の声を上げ続けることができない気持ちになっていった。なぜなら、谷岡学長に一度もお会いしたことがない……。知らない人を、印象だけで叩き続ける自分を許せない気持ちが心の大半を占めるようになった。

栄希和選手(中央)とセコンドについた吉田沙保里選手(右) (C)Getty Images

“パワハラの権化”から語られた「自信」と「情熱」

ずいぶん前だが、一度だけ至学館大学(当時は中京女子大)の道場に取材に行った経験がある。栄監督にお会いして話を聞いた。まだ学生だった吉田沙保里選手、伊調馨選手らの練習風景を見せてもらった。厳しい練習内容に見えたが、選手が汗びっしょりになりながら目を輝かせ、はつらつと取り組んでいる姿が印象に刻まれた。

古いタイプの高校野球経験者である私には、「猛練習は嫌々やらされるもの」「厳しい指導に耐えるもの」といった思い込みがあった。ところが、彼女たちは違って見えた。自ら望んで練習に向かい、厳しい叱咤や視線を浴びせる栄監督に負けている様子がなかった。そのことも頭の片隅にちらついていた。

会わずに批判を続けるのでなく、できるならお会いしたい。ある日そう思いたち、共通の知人の存在を思い出した。すぐ彼に連絡をすると、5分も経たないうちに谷岡学長からの快諾の報せが届いた。翌週、私は名古屋で電車を乗り継ぎ、大府駅から至学館大学に向かった。4月26日の午後だ。想像したよりずっと質素な学長室で、谷岡学長と紹介者、3人で会った。

最初に谷岡学長はこう言った。

「私が30年ちょっと前にこの学校に赴任した時、ここはスポーツの強い女子大だと聞いて来ましたが、ケガ人と生理の止まった子がたくさんいる、およそ健康的とは言えない大学でした。非科学的で、理不尽な、勝つためなら手を挙げることも厭わない、古いタイプの指導者がたくさんいました。私は理系の出身ですし、留学先でまったく対照的で爽やかなスポーツの光景を見ていましたから、『この不健康な部活動を改革したい』『科学的で、合理的で、選手が主体性を持って取り組む、新しいスポーツのムーブメントをこの大学で実現したい』、そう決意しました」

そういう言葉が、“パワハラの権化”と世間で言われる谷岡学長の口から語られるとは想像しなかった。だが、その眼差し、その語り口すべてに、実践を重ねて来た当事者だけが言い切れる自信と情熱の裏付けを感じた。

「栄さんも日体大出身、この学園に来た当初は古いタイプの指導者でした。手も出す、言ってはならない言い方もする。私たちはそれを粘り強く指導し、話し合い、栄監督を変える努力も重ねてきました。その結果として、いま女子レスリング部は本当に自信を持ってみなさんに見ていただきたいくらい、選手が主体性を持って、明るく爽やかな雰囲気で毎日練習しています。いま至学館の道場は、テレビで言われているようなパワハラ的な空気は一切ありません。それなのに、まるで私自身がパワハラそのもの、金メダルを獲るためにそれを推奨してきたように非難されるのは、本当に……」

やりきれない表情で溜め息を洩らした。

「金メダルを獲りさえすれば、子どもが産めない身体になっても仕方ない。そんな乱暴なことがあっていいはずがありません。常に体調をチェックして、やりすぎないよう、栄養が不足しないよう、日々の食事にも気を配る体制を至学館ではずっと整備しています」

女子マラソンが競技化し、体操選手の身体が小さくなるなどの状況から、女子選手の生理不順が深刻な課題となっていた。だが、男性優位の社会の中で、それは公の席で語られたり、スポーツ界全体が共有する課題になりにくかった。谷岡学長はいち早くその課題の重さを認識し、改善に取り組んできたという。

“あの会見”からは見えてこなかった谷岡学長の素顔

話を聞きながら、なぜスポーツを書く仕事に携わってきたのか、私自身の原点を思い起こした。大好きな野球、幼いころから憧れていた高校野球が私を失望させた。そこは、個人の感性や心の中で起こるひらめきを抑えつけ、身体的に猛練習を強いるだけでなく、精神の自由さえ束縛する、窮屈な世界だった。なぜ〈好きな野球〉をこんな抑圧された思いでやらねばならないのか? しかも、猛練習つまり量をこなす以外に成長の方法がないような非科学性にも、高校生ながら呆然とした。
(もっと科学的な練習やトレーニング方法はないのか?)
日本のスポーツを体系的で、明るく、もっと選手自身の心の喜びを主体とする方向に改革したい、その一助になりたい、強い思いが私にこの道を歩ませ続けてきた。そんな自分の情熱と、谷岡学長の挑戦と実践が響き合った。

さらに、新入生たちに向けて学長自らが受け持っている『大学論』という授業の逸話を聞いた。
「至学館大学で何を学ぶのかを私が講義します。その上で学生が自分で課題を設定して、5月の連休中に挑戦しレポートを書くのが最初の課題です」

その話をする谷岡学長は心底うれしそうだった。
「大学を卒業すると、就職、結婚という、人生の大きな冒険が待っています。その準備のために、大学では小さな冒険をする。私たちはそれを〈プチ冒険〉と呼んでいます。これまでの自分を変える、嫌いな自分、できない自分、どんな些細な挑戦でもいいから目標を設定してやってみるんです。これが本当に面白いんです」

相好を崩して、谷岡学長がいくつかの実例を話してくれた。

ある時期からずっと会話していなかった父親に話しかけると決めた女子大生、引っ込み思案だからバイト先のコンビニのお客さんにとにかく明るく話しかけると決めた男子学生、帰省先の実家まで約150キロを自転車で帰ると決めたものの途中で挫折した男子学生などなど。自ら実践した成果だろう、谷岡学長から聞く彼らの心の機微が細やかで、表現も驚くほど瑞々しい。思わず、それは学長の表現ですよね? と確かめると、「いえ、彼らのレポート表現そのままです」、うれしそうに言った。

学長がそれほどの近さで学生たちの青春に寄り添っている。それを知って素直に感銘を受けた。このような大学がある。教育者としての実践の日々を知って敬意を覚えた。あの記者会見で想像した谷岡学長の素顔とはあまりに対象的だった。その日は結局、午後2時から6時過ぎまで、話を聞いた。それから3週間後にも約4時間。レスリング部に限らず、他の部活や授業で接する学生たちとの様々なエピソードは尽きることがなかった。

選手への聞き取りで決まった「条件付き」での栄監督留任

「週刊誌で取り上げられた後、選手全員それぞれにカウンセラーをつけてカウンセリングをすると同時に、チームの中でパワハラや何か困ったことがないかを詳しく聞いてもらいました。その結果、いま至学館大学にいる選手たちはひとりも栄監督からパワハラを受けたと言う子はいませんでした。そして、私が全員に聞いたところ、みんなが、栄監督に戻ってほしい、続けて指導を受けたいと言いました。それで私は条件をつけました。あなたたちが栄監督を指導しなければいけない、それができるか。もし栄監督にパワハラも含め、間違ったことがあったら、選手がきちんとそれを伝え、変える覚悟が条件だと」

その上で、栄監督の留任が決まった。そのとき私は、世間では「栄監督の指導能力を必要とし、次の五輪でも金メダルを獲るために監督復帰を早々に決めた」と理解しているだろうが、実際はそうではない。栄監督自身が元気を回復し、再び立ち上がるために監督という席が必要だと谷岡学長も選手も感じたのだと理解した。学長はこうも言った。

「いま至学館の道場では、選手たちが主体となって明るく爽やかな雰囲気で練習しています。やらされているのではありません。至学館のレスリング部ではもう十年くらい、毎日の練習メニューはキャプテンが決めています。栄監督が決めてきたのではありません」

パワハラ問題で問われているのは、これから日本のスポーツ界がどのような意識を共有し実践できるかだ。指導者は、これまでの上から目線を改め、選手をサポートする姿勢を基本にすることも重要だろう。こうした哲学と常識をしっかり確認し、共有することが日本社会に絶対必要だ。選手を主体とした指導環境の整備。だが、大半の人がその具体的な実践モデルを描けないのも現実だ。そんな中で、「この場所には、具体的な道筋がすでにあるのではないか」、そう思わされたのが奇しくも至学館大学のレスリング道場だった。この大いなる皮肉に戸惑いもしたが、それが現実なら素直に受け入れ、歓迎すべきだろうと私は思った。近いうちに、練習風景を見せてもらう約束をした。

(C)Getty Images

「手のひら返し」と揶揄された栄監督解任の理由

その矢先、「解任」が発表された。
大会初日の謝罪会見からわずか3日後。世間やメディアは「またしても谷岡学長が強権を発動し、感情的に独断専行した」と受けとめた。そして谷岡学長は「選手ファースト」と言うが、「選手は動揺しているに違いない」と非難した。

私は会見の後も谷岡学長から直接、話を聞いた。
「本当はセコンドについてほしかったのです」
谷岡学長は言った。栄氏自身が監督として一からやり直す覚悟を表してほしかった、「セコンドで選手たちの汗をタオルで拭いてあげるところから始めてほしかった」

それができなかった栄氏にまず失望したという。そして、スタンドから試合を見つめる眼差しや姿に、「思い」を感じることができなかった。その大会は、世界選手権の代表選考に関わる重要な舞台。他の競技に例えたらサッカーのW杯予選、高校野球ならセンバツ甲子園にも相当する、当事者なら一瞬たりとも気を抜けない、テンションが上がって当然の舞台だった。

ところが、栄氏の心はそこになかった。その一日一日は、それまでの競技人生を集約する重要な一日だ。「わずか3日で」という表現は当たらない。そんな栄氏を見て、選手たちの心が離れたこともむしろ当然だろう。谷岡学長は独断で解任を決めたのではないと言った。動揺させたくないからまだ試合を控えている選手には言わなかったが、吉田沙保里選手をはじめ、試合を終えた選手には思いを聞いた上で、判断したと教えてくれた。栄氏のお嬢さんである栄希和さんも同じ気持ちだったという。それが辛かったと学長は言った。

後任は「吉田沙保里さんか?」と記者会見で問われて、「可能性はあるでしょうね」と答えたが明言はしなかった。会見後に谷岡学長はこう話してくれた。

「私が決めてしまうのは違うと思います。21世紀のスポーツはどうあるべきか。選手とコーチが、自分たちにはどんなリーダーシップが必要なのかを十分に話し合った上で、それにふさわしいリーダーを選ぶべきだと思います。その人材が学内にいるのか、いなければ学外から招くのか。それも含めて、時間をかけて話し合ってもらうつもりです」

<了>

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小林信也

1956年生まれ。作家・スポーツライター。人間の物語を中心に、新しいスポーツの未来を提唱し創造し続ける。雑誌ポパイ、ナンバーのスタッフを経て独立。選手やトレーナーのサポート、イベント・プロデュース、スポーツ用具の開発等を行い、実践的にスポーツ改革に一石を投じ続ける。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍。主な著書に『野球の真髄 なぜこのゲームに魅せられるのか』『長島茂雄語録』『越後の雪だるま ヨネックス創業者・米山稔物語』『YOSHIKI 蒼い血の微笑』『カツラ-の秘密》など多数。