昨年12月に行われた全日本個人総合選手権。北園は決勝で全体1位の87.598点を叩き出し、見る者をあっと言わせた。ミスで7位と出遅れた予選の得点との合計で競われたため、最終順位は萱和磨に次ぐ2位だったが、高校生で全日本選手権の表彰台に上がったのは、あの内村航平でもなしえなかった快挙だ。

「シニアでも通用できたのでうれしいが、優勝を目指してきたので少し悔しいところもある」

 2位でもそこまで言えるほど、昨年の北園の成長は目覚ましかった。ユース五輪で5冠に輝いてから約半年後の19年4月に行われた全日本選手権は、まだジュニアルールでの練習が主体だったこともあって、17位。20年はコロナ禍で練習そのものが困難な時期もあったにもかかわらず、ここまで飛躍できたのはなぜか。6種目全体の難度アップと実施点の向上があるのはいうまでもないが、中でも大幅に向上した象徴的な種目は跳馬だ。

 北園が高1の時に試合で使っていたのは「カサマツ系」と呼ばれるDスコア(演技価値点)4・8点の「アカピアン(伸身カサマツとび1回ひねり)」という技だった。跳馬に対して斜めに手を付き、空中でひねりを加える技である。高2だった19年はアカピアンのひねりを半分増やし、Dスコア5・2点の「ドリッグス(伸身カサマツとび1回半ひねり)」を使った。

 しかし、世界の表彰台を争うレベルにはまだ難度が足りない。そこで、高3になった昨年はさらにひねりを加えるDスコア5・6点の「ロペス(伸身カサマツとび2回ひねり)」の習得に励んだが、なかなかうまくいかなかった。

 ところが、ロペスを安定させるための練習の一環で、ロペスと同じDスコア5・6点の「ヨー2(前転とび前方伸身宙返り2回半ひねり)」をやってみたところ、これがうまくはまった。踏み切り後、跳馬に対して斜めに手を付くロペスと異なり、正対した状態で両手を付くヨー2のほうが北園には向いていたようだ。昨年10月下旬の練習開始からわずか3週間で完成したという。

 このように高校の3年間で跳馬だけで0・8点も難度を上乗せできた“秘密”は何か。そのひとつが、けがをしていた19年末から20年初頭にかけての時期や、緊急事態宣言で体育館を使えなかった時期に取り入れた「走り込み」だ。

 清風高校の梅本英貴監督は15年に現在の新校舎ができた時から、専門家のアドバイスも得ながら「走り方」の練習に着手していた。以前の校舎は狭く、体育館の扉を開けて廊下から跳馬の助走を始めていた。だが、15年に現在の新校舎が完成して体育館が広くなると、跳馬の助走路をしっかりと確保できるようになり、選手の脚力向上を目指せる環境が整う。15年は北園が清風中学に入学したタイミングでもある。

 とはいえ、それでもまだ試合で他校の選手と比べると「足が遅い」(梅本監督)。そこで、昨年から屋外に出て校庭のグラウンドでのインターバル走を課すようにした。清風のグラウンドは2周で300m。直角に曲がるのでストップ&ゴーを繰り返しながら、300mを50秒で走って1分休んで、それを4セット繰り返す。「走れるようになると、跳馬の助走を全速力ではなくゆとりをもっていける。それによって、踏み切りや手の付き方などが相乗効果で良くなった」と梅本監督は言う。

 脚力がついたことによって北園は調子の波も減った。さらには緊急事態宣言中に毎朝1時間の走り込みも行い、下半身のパワーをつけていた。

1月6日の公開練習の様子

書初め「達成」に込めた思い

 今後、北園が4月の全日本選手権までに難度を上げるつもりだというのは、ゆかと鉄棒。ゆかは、G難度の「リ・ジョンソン(後方かかえ込み2回宙返り3回ひねり)」を入れる。鉄棒は、「屈身コバチ」を入れて離れ技を4個から5個にするほか、「伸身トカチェフ」と「トカチェフ」を連続し、加点をもらう構成だ。

 21年の正月は清風高校体操部で恒例となっている元日練習で1年をスタートした。1月6日には報道陣に練習を公開し、「達成」としたためた書初めを披露した。

「今年が東京五輪イヤーということで、小さいころからの目標である個人、団体の優勝をしっかり達成できるように、この言葉にしました」

 初詣で引いたおみくじは「小吉」だったというが「願いはかなうと書いてあったので、そこだけ信じて頑張る」。願いは定まっている。だから小吉であろうが構わない。3月に清風高校を卒業した後は、社会人の徳洲会体操クラブ(神奈川県)に入り、通信制の星槎大学で学びながら世界一を目指す。東京五輪までは徳洲会のサポートを受けながら清風高校で練習を続ける。

「今までは挑戦者の立場だった。でも全日本選手権の結果から、日本のトップや、世界でも金メダルを狙えるところまで見えてきて、より一層自分の目標が明確になった」

 身長はこの1年でさらに伸びて157センチになった。内村がナショナル入りした時と同じ、高3で初のナショナル入りも実現した。「ずっと代表に届かなかったが、やっとナショナルに入れた。ナショナルの中で自分を高めていって、日本の一番の目標である団体と、個人総合で金メダルを取りたい」。

 日本人選手が10代で五輪の個人総合メダルを獲得したのは、08年北京五輪に19歳7カ月で出場し、銀メダルを手にした内村が今のところ最初で最後。気が早いのを承知で書けば、北園が東京五輪の個人総合でメダルを獲得た場合、18歳9カ月での達成となり、内村を超える年少記録になる。

 全日本選手権決勝で出した87点台は世界で表彰台争いをするための最低ラインと言える。18歳でそこに到達した努力と才能はまさにスーパースター候補。21年はあどけなさの残る小柄なオールラウンダーから目が離せない。


矢内由美子

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。ワールドカップは02年日韓大会からカタール大会まで6大会連続取材中。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。