神通力に陰り

 初日の明生戦で相手得意の左四つでの勝負に持ち込み、力尽く白星を挙げた白鵬。その後も勝ち続けたが、異変は7日目に起きた。すばしっこい動きが武器の翔猿との初顔合わせ。そこで翔猿は仕切り線から大きく下がり、立ち合おうとしたのだ。当たりで不利になる小兵がごくたまに使う戦法。歴代最多優勝記録を持つ白鵬を相手に試みたことが、驚きを持って受け止められた。

 これまでの初対戦力士といえば、白鵬のオーラに押され、雰囲気にのみ込まれたように負けるシーンが普通だった。今回、相手が白鵬だろうとお構いなしに奇襲を仕掛けにきた。裏を返せば、それまで土俵上を支配してきた白鵬の神通力に陰りが見えてきているとの見方がある。6場所連続休場に右膝の大きなサポーター。翔猿戦では様子を見ながら最後に何とかつかまえたが、白鵬は戸惑いの表情を浮かべ、やりづらそうな雰囲気がありありだった。

 そして、自らが14日目にこの奇策を用い、物議を醸した。相手は大関正代。仕切り線から大きく離れるのは、正々堂々の姿をことさら求められる横綱の立場からすれば異様に映った。八角理事長(元横綱北勝海)は「普通、奇襲は弱い方がやるものだ。それだけ優勝している横綱がああいうことをしてはいけない」と苦言を呈した。本人は後日、正代に立ち合いで踏み込まれることを警戒したと明かした上で「その日の朝起きてあの立ち合いだと思った。あそこまで下がると思わなかった」と説明した。一つ言えるのは、優勝争いも佳境に入った最終盤で珍しい策をいきなり実行に移せるということは、度胸や勝負勘が相変わらず人並み外れているということだ。

歴史的評価

 剣豪として知られる宮本武蔵は、有名な「巌流島の決闘」で佐々木小次郎を倒して現代にも名を残している。この大勝負で、武蔵はわざと遅れて島に到着し、待たされて気持ちがじれた小次郎に勝ったとされる。真っ向勝負といえないが、現在でも勝負師として武蔵の名声は色あせていない。勝ちに徹した白鵬の奇襲。武蔵のように後々になって評価されるか否かは歴史にゆだねるしかない。

 ただ今後を見据えた場合に、影響を懸念される点はある。将来的に親方として日本相撲協会に残ることが確実で、ゆくゆくは部屋を持つことを視野に入れている。自らは細身の体で入門し、たゆまぬ努力でここまでの大横綱になった。相撲に関する知識や考え方が秀でているのは当然だ。しかし、最高位として今回のような奇策を用いたことで、ある部屋持ちの親方は「弟弟子たちはずっと背中を見て育っている。白鵬が教える立場になったときに、堂々たる相撲道というものをしっかり指導していけるのかどうか、はたから見ていて首をかしげたくなる印象はある」と指摘した。

深刻な大関陣

 白鵬と照ノ富士が勝ち続けた一方、対照的に両者以外の物足りなさも目立った。特に横綱を脅かすはずの大関陣は照ノ富士以外の3人とも精彩を欠いた。3人のうちでただ一人勝ち越した正代も前述のように14日目には白鵬にいいようにされた。相手は徳俵の直前にまで下がって仕切っている状況。鋭い出足で向かっていけば横綱は俵を背負っての相撲になる。必然的に正代は優位に立って、土俵を割らせることも可能だったはずだ。それがキツネにつままれたように立ち上がると、歩いて前進。何のことはない、向かってきた白鵬と相対してしまい、相手が俵付近に下がって手をついているアドバンテージはなくなった。

 千秋楽に何とか勝ち越した正代の他、貴景勝は首を痛めて3日目から休場し、秋場所はかど番。高くない身長から体全体を使っての当たりの強さが武器だけに、影響が心配される。また、朝乃山は周知のように、新型コロナウイルス対策のガイドライン違反により名古屋場所から6場所出場停止で、秋場所は関脇に転落する。正代と貴景勝に不安定さが続けば、名古屋場所で4人いた大関が漸減し、いなくなる恐れもある。

疑問符の横審

 場所後の横審では照ノ富士の横綱昇進を全会一致で推薦した。また白鵬について、休場の多さから昨年11月場所後に決議した「注意」を解除したものの、14日目の大きく下がっての仕切りや千秋楽で見せたガッツポーズ、多く用いた張り手に対して批判が噴出。矢野弘典委員長(産業雇用安定センター会長)は「実に見苦しいと思いました。どう見ても美しくない。長い歴史と伝統に支えられてきた大相撲が廃れていくという深い懸念を共有しました」と断じた。

 批評自体は各委員の見解によるもので他人がとやかく言うことではないが、委員会の姿勢に疑問符が付くような一件があった。矢野委員長によると、「注意」を決議して以降、一度も白鵬から話を聞くことをしていなかったのだ。確かにこれまでの決議や批判、叱咤激励ならその必要はなかったかもしれない。しかし史上初めて決議された「注意」は引退勧告の次に重く、横綱の人生を左右するような重要な案件。横審の内規には決議をする際、「その横綱の実態をよく調査して」と記されているが、協会からの報告など間接的な事実掌握にとどまり、内規を十分に満たしていないと捉えられる。

 かつて横審は、横綱3代目若乃花を呼んで「休場勧告」を伝えたこともある。メンバーは違えど、白鵬は横審として推薦した力士。コロナ禍で直接面会して会話することがはばかられるのであれば、スマホなどでその気になればいくらでもコンタクトを取れる。重大な判断を下す場合に最低限、現場や当事者の声を聞くことは、昨今の一般社会でもさけばれていることだ。

 ともあれ、白鵬が現役続行の糧として長年意識してきた東京五輪は、開催に賛否が渦巻く中で7月23日に始まった。新型コロナ禍でも、始まってしまえば毎度のようにテレビや新聞は五輪一色の盛り上がりだ。2横綱となる次の秋場所は9月12日に初日を迎える。パラリンピックも終了し、世の中が「祭りのあと」の状況で、名古屋場所の名残がどうつながっていくか興味は尽きない。


VictorySportsNews編集部