72歳の村田氏が目を細めて、受賞を喜んだ。自身が提唱し、中心になってきた「離島甲子園」の活動が、社会貢献活動に取り組むアスリートの活動として評価されたからだ。

「本当に心から感謝しています。私はこれまでたくさんの賞をいただいてきましたが、今回は特にうれしく、多くの人に誇りたいです」

「離島甲子園」について語る村田氏

 「離島甲子園」とは、全国の離島球児たちが集まる中学野球大会で、2008年に始まった。コロナ禍で2020年、2021年は中止となったが、2019年まで12年連続で開催。村田氏が大会を提唱するきっかけは、現役を引退した翌年の1991年に届いた1通の手紙だった。

「私は先発完投を信念に23年間、ロッテ一筋でプレーし、最後に10勝してユニホームを脱ぎました。引退後、『社会貢献をしたい』と思っていた時に、新潟県の粟島からお話をいただきました。そこが全ての始まりです」

 手紙の主は、少年球児の親だった。離島というハンデのある環境で必死に野球を頑張っている子どもたちに向けて、「本物の剛速球を見せて、勇気を与えてほしい」という願いがつづられていた。その思いに応えるべく、村田氏は粟島に入った。目にしたのは、部員15人で白球を追う子どもたちの姿。その中に入った村田氏は、スーツの上着を脱いでワイシャツ姿になり、独特の「マサカリ投法」から本気でボールを投げ込んだ。打席には1人ずつ15人全員を立たせ、「本気で物事に取り組む」ことを伝えた。離島にいると、「どうせ本土や本島には勝てない」などと言いがちだが、「本気でやっていれば、必ずいいことがある」という思いも伝えたかったからという。後日、子どもたちから届いた手紙には、野球教室に対する御礼に加え、「お父さんの後を継いで漁師になります」「病気で苦しんでいる人のために医師になりたい」と、将来への「夢」が書かれていたのだ。思いが届いたことに感激した村田氏は、ここで「この活動をライフワークにする」と決意した。

 全国に公共交通機関で行ける離島が200以上ある。村田氏は、自身の通算勝利数「215」を目標に1島1島を訪ねた。大地震と津波に襲われた北海道・奥尻島でも、140キロの速球を投げ込みながら、「負けるな」と繰り返して叫んだ。

「奥尻、伊豆七島、父島、母島、隠岐島、壱岐、対馬、与那国島などで、子供たちと触れ合っていきました。子供たちは『楽しかった』と言い、私は『成長するには、挑戦することが大事』などと伝えました」

「離島甲子園」での村田氏

 野球教室を続けていく中、「離島甲子園」の前身となる「三市交流野球大会」が2005年から、長崎県対馬市、長崎県壱岐市、新潟県佐渡市の順で開催された。村田氏はこの大会の成功をヒントに、「こうした活動を全国に広げるべき」と、「離島甲子園」を提唱。資金集めのため、自ら関係する官公庁を回り、自身の思いを携えてスポンサー探しに奔走した。そして、国土交通省に協力を得ることに成功し、全国の離島を管轄する同省内の組織「離島振興協議会」では、「離島甲子園」の活動が予算の一部となった。

「全国を回りましたね。国土交通省、島の自治体にも賛同していただき、とても助かりました。当然のことですが、資金の流れは明確にしました」

 そして、2008年に第1回を東京都大島町で開催。全国から10自治体が参加した。翌2009年に島根県隠岐の島町で開催の第2回には15自治体、第3回以降もその数は増え、2019年に対馬市で開催された第12回大会では、24自治体が参加した。村田氏は個人で島を回っていた頃を含めて、この活動に情熱を燃やし、プロ野球界からのオファーも断っていた。

「途中、コーチをした時期はありましたが、監督の要請は断りました。『離島甲子園をやる』と決めていましたからね。人にウソをつくことが嫌でしたし、そこに懸けているものがありましたから」

 村田氏は毎年、大会の企画の段階から関与し、期間中は現地に滞在しながら全チームの試合を観戦している。大会後のサヨナラパーティーにも参加。子供たち、保護者たち、島の人々と積極的に触れ合ってきた。そして、大会を通じて、「島が1つになり、絆を深める」場面も目にしてきた。

「他の島のチームに勝つべく、島全体が1つになりますね。3年生を懸命に応援する後輩たちと、『ありがとう』という思いを持って、それに応えようとする3年生の選手たち。ある時は、練習中におばあちゃんが入ってきて、子供たちに手本を示そうと一塁ベースを駆け抜けたこともありました(笑)。開会式では入場行進もしますし、(ゆずの)『栄光の架橋』を歌ったりもします。パーティーでは、子供たちにマイクを持たせて、チームのことを話させるなどし、大会後には大会の感想を作文にして提出してもらいます。こうした経験を基に島を出てからも、頑張ってくれることを望んでいます」

 村田氏は、子供たちには『1度、島外に出て広い世界を感じて帰ってきてもらいたい。島外で培った様々な知見を還元し、島の活性化につなげてほしい』と思っている。「離島甲子園」がそのきっかけとなり、子どもたちの中から、プロ野球選手が誕生することも願ってきた。その思いは、10月11日開催の2021年プロ野球ドラフト会議で成就した。第7回大会(新潟県佐渡市開催)に出場した菊地大稀投手(佐渡高→桐蔭横浜大)が、巨人に育成6位指名。離島甲子園出場者でドラフト指名選手となった。そして、11月開催の秋季鹿児島県大会では、奄美市の大島高が優勝。第12回大会(長崎県対馬市開催)に出場した大野稼頭央投手が優勝投手になり、続く九州大会準優勝にも貢献した。同校は来春のセンバツ出場が有力で、大野投手の甲子園での活躍も期待されている。

「彼(菊地投手)とは『高校進学はどうするの』『佐渡高に進みます』という会話をした記憶があります。素晴らしいですね。こういうことは島に刺激を与えていくと思います。甲子園出場は、(奄美大島の)龍郷町から鹿児島の樟南高校に進んだ選手らの例がありますが、あの時は町長さんが甲子園まで応援に行きました。その選手もチームも引っ張る存在に成長していました。野球を続けていなくても、プロ野球を狙えるところまで行き、今は教員になって頑張っている離島甲子園出場者にも会いました。すごく立派になっていて、本当にうれしかったです」

 村田氏は、野球を通じた島と島との交流、地域振興、子供たちの人としての成長を目指し、「離島甲子園」の活動に邁進してきた。現役引退後も社会とつながり、アスリートである自分にしかできない活動を地道に継続してきた成果は明確に出ている。次は13回目。村田氏は今回の受賞も励みに、来年の開催を願っている。

「離島甲子園」での主将集合写真

VictorySportsNews編集部