平昌五輪までの宇野の経歴は輝かしい。15年3月の世界ジュニア選手権を制すと、シニアに転向した翌シーズンにはフランス杯でグランプリ(GP)シリーズ初優勝を果たし、シリーズ上位6人で争うGPファイナルではいきなり3位で表彰台に立った。17年には世界選手権で2位となり、羽生との二枚看板で臨んだ平昌五輪では日本勢初のワンツーフィニッシュを飾った。

 ”シルバーコレクター”と揶揄されることもあったが、19年2月に米アナハイムで行われた四大陸選手権で初めて主要国際大会優勝を飾り、北京五輪へ向けて順調な道のりを歩んできた。そのシーズン終了後、宇野は大きな決断を下す。スケートを始めた5歳から指導を受けてきた山田満知子、樋口美穂子両コーチの下を離れるというものだ。山田コーチからの「私たちからでは得られないものを得てきなさい」との親心を受け入れての新たな挑戦だった。

 6月には平昌五輪女王のアリーナ・ザギトワ(ロシア)を育てたエテリ・トゥトベリゼ コーチの合宿に参加もしたが「今は1人でもできる。じっくりと自分のスケートを探したい」と結論は急がなかった。だが、徐々に歯車が狂い始める。拠点の中京大アイスアリーナ(愛知県豊田市)で誰の助言も受けずに黙々とプログラムを滑り込む毎日。客観的に自らの滑りを評価してくる存在がおらず、前に進んでいるのかどうなのかもわからない。その頃から頻繁に「スケートが面白くない」と言葉に漏らすようになった。

 そのまま異例のコーチ不在で臨むことになったシーズン序盤、抱え込んでいた感情があふれ出した。2019年11月2日。グランプリ(GP)シリーズのフランス杯のフリーを終えると「言葉では表現できない涙が出てきた」と人目をはばからず、泣いた。ショートプログラム(SP)4位からの出遅れを期したフリーだったが、最初から流れに乗れなかった。4回転サルコーは回転不足で着氷が乱れると、4回転フリップでは氷に手を付いた。得意とするトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)でも転倒。本来であればコーチと共に得点を待つ「キス・アンド・クライ」で1人うなだれていた。結果は8位。シニアに転向してから5シーズン目にして初めて表彰台を逃した。

 「僕の弱さと一緒になってくれるコーチがいた方がいいのかなと思う」。試合後、宇野は率直な気持ちをさらけ出した。思えば、平昌五輪で銀メダリストとなってから宇野の歯車は少しずつ狂い始めていたのかもしれない。メダル獲得から一夜明けて行われた記者会見で「メダリストになったからといって何か変わるとは思ってないし、僕も何も変わらない。リンクと家を移動するだけなので人にも会わないし、日常生活も何も変わらないんじゃないかと思う」と語っていたが、現実は違っていた。これまでフィギュアに興味がなかった人からも注目を集めることになり「五輪銀メダリストの大きさを知った。成績を落としてはいけないという重圧を感じた」。

「完璧にやるには自由でなければならない」新たな指導者のもとで

 心身共に疲弊する中、手を差し伸べてくれたのが元世界王者のステファン・ランビエル氏(スイス)だった。ランビエル氏自身にも苦い経験があった。切れのある4回転ジャンプと世界一と評された美しいスピン、情感豊かな表現力を武器に06年トリノ五輪では銀メダルを獲得。しかし、現役生活最後の大会となった10年バンクーバー五輪では4位で表彰台を逃し「結果を求めすぎて自由な演技ができなかった」と振り返る。

 「完璧にやるには自由でなければならない。演技する瞬間は、ただただ自由に自分の持っているものを全て出し切ることが大事だよ」。自らと同じ、世界のトップで戦える実力があるスケーターだからこそ、同じ轍を踏んでほしくはなかった。その思いは宇野の心に響いた。「ステファンは僕と一緒に歩いてくれる」。20年1月には練習拠点をスイス・シャンペリーに移すことを決めた。

 時を同じくして、世界中でまん延した新型コロナウイルスの影響で思うように渡航できず、オンラインでのレッスンを余儀なくされる時期も多かったが、滑る楽しさを再認識した宇野は徐々に自らの演技を取り戻していった。独特の感性を生かした滑りはそのままにランビエル氏の指導で表現の幅も広げた。そして五輪シーズンとなる今季、ランビエル氏がフリーに選んだのはバレエの名曲「ボレロ」。フィギュアスケートの王道とも言えるプログラムだが、「とても激しく燃える炎」をイメージして一つ一つの技のつなぎの部分の振り付けにもこだわり、宇野が「自分がこれまでに身につけてきた全ての動きを盛り込んだ」演目をつくり上げた。

 さらにフリーでは4回転ジャンプをフリップ、ループ、サルコー、トーループの4種類5本跳ぶ自己最高難度の構成にも挑むことを決めた。ランビエル氏から「世界一を狙うためには何が必要か」と問われた際に「これまで以上の4回転ジャンプ」と即答。平昌五輪シーズン後は封印していた4回転ループの練習を本格的に再開し、他の4回転も自身の動画を難度も見返して改良を重ねてきた。

 「ドミノのように失敗すると失敗が連鎖してしまう構成」との言葉どおり、詰まりに詰まった演目をこなしきることは生半可ではないが、シーズン初戦となった昨年10月のジャパン・オープンから果敢に挑戦。ミスのない完璧な演技はまだないが、昨年11月のNHK杯で3季ぶりのGP優勝を飾ると、昨年12月の全日本選手権では羽生に次ぐ2位となり「この構成は僕にとってベースとなり、もう挑戦ではないと」と力強く言い切った。

 「もう一度、世界のトップで戦える存在になりたいと心の中で強く灯がともっている」と心にたぎる強い思いを胸に照準を合わせてきた決戦はまもなく。大きな壁を乗り越えた世界屈指のスケーターは、厳戒態勢の北京の地でどんな物語を紡ぎ出すのだろうか。


VictorySportsNews編集部