クリニックの“メンター”を務めたのは、世界1位の国枝と、同じくユニクロのグローバルアンバサダーである英国のスター選手にしてリオ・パラリンピック金メダリストのゴードン・リード。二人と少年少女たちはボールを打ち合い、写真を撮り、テニスという共通言語を介して触れ合った。

 イギリスの車いすテニスの普及は、一朝一夕に起きたことではない。

「ローハンプトンにある、LTA(英国テニス協会)の施設は世界一だと思うし、僕が練習に行った時にも、よくクリニックをやっていたのを見ていました。それを継続してきたので、ジュニアも増えてきたのかなと思います」

 国枝がそう述懐する車いすテニスの活性化の起点には、2012年のロンドン・パラリンピックがある。実は今回のクリニックが行なわれたのは、その時の車いすテニス会場。そして、ロンドンのセンターコートで戦い金メダルを勝ち取ったのが、他ならぬ国枝だ。

 それから9年後の昨年、国枝は東京パラリンピックでも、金メダルをつかみとった。現在、38歳。プロ宣言をしたのが、25歳の時。車いすテニスのみならず、障がい者スポーツのパイオニアでありヒーローでもある彼は、踏破してきた道に想いを馳せて、言葉をつむぎはじめた。

「プロに転向して時から、もっとこの世界を活性化していきたいという思いは、凄くありました。当時は、車いすテニスで生計を立てるとか、パラリンピックスポーツのプロは居ない時代でしたから。そもそも僕が車いすテニスを始めた1995年頃は、パラリンピックという言葉を知っている人も少なかったと思います。僕自身も車いすを使っているのに、パラリンピックを知らなかった。認識したのは、シドニーの2000年の時かな? それまではなかなか、パラリンピックの存在すら知られていなかったと思います」

 その後、自らもパラリンピックを目指し、実際に出場してメダルも獲得していく中で、「世界がどんどん変わってきた」のを見てきたと国枝は言う。

「ロンドン・パラリンピック前と後では世界の感覚が変わったし、特に日本では2013年に東京オリ・パラの招致が決まったので、大きく変わったと思います」

 その「変わった世界」の一端は、今回のクリニック参加者たちの多くが、将来の目標に「パラリンピック出場」を掲げていたことにも映される。

 そしてパラリンピックに並び、英国の若き車いすテニス競技者たちが目指すのが、ウィンブルドンだ。グランドスラムに車いす部門があり、同じ会場で開催されていることが、他のパラリンピック競技にはないテニスの特性だろう。

 かようにテニスが“ダイバーシティ”を体現できているのは、今回のクリニック主催者がITFであることにも象徴されるように、車いすテニスも含め、競技運営組織が一本化されていることが大きい。国枝が説明する。

「そもそも車いすテニスは、ITFがずっと管轄をしている。そこが一緒なのが、僕らにとって凄くアドバンテージであり、他のパラリンピックスポーツと違う点だと思います。だからこそ車いすテニスには賞金も昔から出ていたし、グランドスラムも共催だし、ルールも2バウンドが許される意外は一緒なんです。その垣根というか差が小さいことが、車いすテニスの魅力的なところでもあるかなと思います」

 車いすテニスは、コートの広さからネットの高さ、使っているラケットやボールに至るまで、一般のテニスと全く同じだ。国枝自身が車いすテニスを始めたのも、“TTC”の愛称で知られる、吉田記念テニス研修センター。車いす使用者も一般のレッスン生と同様に受け入れる、民間のテニススクールである。

 車いすと健常者の垣根もほとんどない中で、ラケットをボールに当てることも難しい状態から、ボールをクリーンに打つ楽しみを知った11歳のころ。そこからスタートし、最大の目標としていた東京パラリンピックの金メダルも取った今、国枝が追い求めているのは、テニスを始めたばかりのあの頃と同じ情熱だ。

「今年の全豪オープンで、自分でもどう打ったか分からないような凄いショットが何本かあったんです。大会が終わって日本に帰ってから、あのショットを目指したいなと思ったんです」

 それは国枝曰く、テニスに魅了された「原点」。

 そして行く先に見据えるのは、グランドスラムのトロフィーコレクションに唯一欠けている、ウィンブルドンのシングルスタイトルだ。

「唯一残されたタイトルでもあるので。もちろん、このタイトルを取れなくても良いテニス人生だったと言えると思うんですが、やっぱりコンプリートしたいという気持ちも当然持っています」

 その最後のピースは、今年の夏に埋まるだろうか? ただ、たとえそうでなかったとしても、国枝の旅が終わることはない。テニスを始めた時から変わらぬ情熱を推進力に、彼は道を切りひらき、前人未到の記録を次々に打ち立て、新たな可能性を自ら体現してきた。

 その先に思い描くのは、「この世界を、より良いものにしていきたいな」という無垢にして壮大な夢だ。


内田暁

6年間の編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスとして活動し始める。2008年頃からテニスを中心に取材。その他にも科学や、アニメ、漫画など幅広いジャンルで執筆する。著書に『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)、『中高生のスポーツハローワーク』(学研プラス)など。