「全人類のために」出資された2200億ドル(約32兆円)

カタールW杯の開催費用は、ブラジルW杯の15倍、ロシアW杯の20倍と言われる2200億ドル(約32兆円)。東京オリンピック・パラリンピックの約20倍でもある。

カタールのタミーム首長が「全人類のために出資した」と胸を張る潤沢な資金の多くが、スタジアム建設や交通インフラの整備に使われたことは一目瞭然だった。スタジアムは8つあるうちの7つが新築で、それぞれ異なったコンセプトのデザイン。日本対クロアチア戦などが行われたアル・ジャヌーブ・スタジアムは、流線型が得意な故ザハ・ハディッド氏が手がけたもの。どのスタジアムも日没後は色とりどりにライトアップされていた。

街の装飾は贅沢感たっぷりだった。高層ビルの壁面を使った各国のスター選手のビジュアルは豪華で、日本代表キャプテン・吉田麻也のビジュアルが施されたビルもある。吉田がドーハ到着直後に述べた「お金をかけているなという印象」という感想は、カタールW杯というパッケージを端的に表現している。

運営面で詳細なシミュレーションを行ってきたことも、開幕から数日でほぼ理解できた。特に事前のシミュレーションが優秀だと感じたのは、トランスポーテーション(輸送)とボランティア指導だ。

移動は取材の成否を左右する非常に大きなファクターだが、今回のトランスポーテーションは筆者が取材してきた多くのスポーツイベントの中で史上最高と言っても過言ではない。11月20日の開幕戦を含め、いくつかの渋滞は発生したが、基本的にメディアを輸送するシャトルバスのオペレーションは100点に近い。定時通りに出発するのはもちろん、乗り切れない人がいればすぐに次のシャトルが用意される。

また、メディアセンターと公式ホテルを結ぶバスがきっちり30分に1本あり(深夜3時から午前8時までは1時間に1本)、約1カ月間のカタール滞在中に定時にバスが来なかったことは1度しかなかった。コロナ対策による「クローズドループ」を厳格に運営した北京五輪ですら、トランスポーテーションでは細かい刃こぼれがあったものだ。

また、ドーハ市内にはW杯に向けて地下鉄(メトロ)が3路線開通。メディアや外国客には特別パスが発給され、無料で乗り放題となっていた。8つのスタジアムのうち5会場はメトロの最寄り駅があるのでそれも便利だった。

ドーハの地下鉄は3路線。スタジアムの最寄り駅が一目で分かる

事前のシミュレーションやボランティア指導は満点に近かった

そもそも移動が快適なのは、カタールの国土が狭く、8つの試合会場がドーハ中心部から34キロの範囲内に集まっていることや、車両専用道路(高速道路に相当)がきっちり整備されていることが理由だ。開幕に合わせてUberなどの条件を緩和したことも非常にありがたく、10キロ程度の距離なら1000円以下で楽に移動できた。

国土が狭いため、1日最大2試合まで取材することが可能というのも過去にはなかったこと。筆者も日本代表の練習取材が早めに終わった日などはできるだけ多くの試合に足を運び、日本戦4試合を含む12試合を取材した。これは2002年日韓大会で取材した14試合の次に多い数だ。

ここまでシミュレーションと指導が行き届いているのかと感心したのは、スタジアム内外に配置されているボランティアだ。観客に対しての案内はどの大会でも手厚いものだが、メディアに対しては往々にして手薄。ところがカタールW杯ではメディアのパスをつけている人を見つけると専用の入り口やシャトルバス乗り場を積極的に声(英単語)で教えてくれるので時間のロスがない。日本で行われるスポーツイベントでは報道陣の導線を知らない(運営側が指導していない)場合が多く、入り口にたどり着くだけで一苦労ということがしばしばあるので、カタールW杯の対応はありがたかった。

一方で、暑さに関しては様々な対処が施されたが、その分ひずみも多く生じた。そもそも11月から12月にかけてという異例な開催日程が組まれたのは、6月から7月にかけてのカタールは最高気温が50度にも達するなど、人間が屋外で活動することができないから。欧州の各国リーグがシーズンを中断して代表に選手を送り込む日程になったため、大会直前に負傷者が次々と現れる事態になった。

また、暑さを和らげるためにスタジアムに冷房をかけるという力技に出たのは、金持ち国のカタールだからこそだが、昼間の試合でピッチ内に冷風を送るのはよしとしても、気温が25度以下になっている夜間でもスタンドに18度設定の冷風を送ったため、観客やカメラマン、ジャーナリストは寒さに震えていた。

スタジアム以外でも冷房問題は取材陣を悩ませた。メディアセンターはスタジアム以上の極寒。昼間など外は30度近くあるのに室内ではフリースやダウンを着込んで仕事をするしかなく、寒暖差で体調を崩して咳き込む人も少なくなかった。

室内外の寒暖差は屈強な選手たちをも困らせた。大会が終盤になり、疲労がたまっているフランスやモロッコは体調不良の選手が続出。日本も久保建英が発熱してクロアチア戦はベンチ入りできなかった。

物価高と円安のダブルパンチ…日本人にはきつかった

悩ましいと言えば、W杯関連はおしなべて物価高で、空前の円安となっている日本人にとっては非常につらい状況だった。ホテルの値段はピンキリとはいえ総じて高いうえに、ファン向けの宿泊施設である「ファンビレッジ」はテントやコンテナといった貧弱なつくりであるにもかかわらず、1泊2~3万円。茶色い水を飲まされたという苦情も報じられた。

不思議だったのは飲食の価格設定だ。メディアセンターでビュッフェ式のレストランに入ると、サラダ、スープ、アラブ諸国料理、寿司、デザートに加えて、ペットボトルのコーラなどが飲み放題で53リヤル(約1900円)。値段が高いので数日に一度しか入れないが、実はこれが一番お得というマジックがある。

同じメディアセンター内でも、カフェコーナーで飲むコーラは1本8リヤル(約296円)だが、そのすぐ横にある自販機のコーラは1本10リヤル(約370円)する。

一番割高なのはスタジアムのワーキングルーム内にあるカフェで、コーラとサンドイッチのセットが50リアル(約1850円)。うっかりカプチーノを飲んだら23リヤル(約850円)もかかって落胆したり、小腹を満たすためにナッツの小袋を買ったら30リヤル(約1110円)もしたり。朝はついつい慌ただしくなるため、スーパーで買っておいたおやつを忘れてトホホという日が何度もあった。

メディアセンターのビュッフェ式レストランの食事

ちなみに、ピッチ状態は事前に危惧していたよりも良いように見えた。通常のW杯は64試合を10会場で行うが、今回は8会場。しかも、開幕戦から決勝までの日程は通常の32日間より短い29日間で、当然ながら試合間隔が短く、ピッチが荒れることが予想されていた。さすがに1日置きに試合があった会場では芝がめくれている箇所もあったが、ボコボコになりがちなゴール前の状態も含めて良好な様子だった。

モノを盗まれる心配がないことの安心感と、暴動リスクを事前回避する強烈な実行力

治安面はどうだったか。モロッコ航空は準決勝のフランス対モロッコ戦を前に、モロッコからカタールに飛ぶはずだった臨時便の運航を停止した。フランスはモロッコにとって旧宗主国であり、準々決勝でフランスとモロッコがそれぞれ勝利を収めた10日夜にはパリ中心部にモロッコ移民を含む約2万人が集まり、一部で騒ぎが起きて74人が警察に拘束された。臨時便の欠航はカタール当局による規制のため。理由は述べられていないが、カタール国内で観戦者同士の衝突が起きるのを事前に防ぐ狙いがあったと見られる。

思い起こせば開幕2日前に突然、スタジアム周辺での大会公式ビールの販売が中止されたのも同じ理由と見られている。

また、ファンゾーンなど人が多く集まる場所のメトロ最寄り駅が「EXIT ONLY(出口専用)」となっている。降りることはできるが、帰りは一駅歩いて隣の駅まで行かないとメトロに乗れない仕組みをつくり、人が過度に密集する状況をつくらないようにしている。治安を守るための方策と有無を言わさぬ実行力はすさまじい。

もっとも、カタールはイスラムの戒律を守っているためもともと治安が良く、忘れ物をしても大体が戻ってくるような国。モノを盗まれる不安がないことは重要で、とても快適だった。06年ドイツW杯ではスリから身を守るために常に注意を払っていたし、10年南アフリカW杯では数十メートルでも1人では歩かないようにしていたし(というか出来なかった!)、14年ブラジルW杯では置き引きやひったくりが横行していた。18年ロシアW杯は鶴の一声で大会中の治安は筆者が過去3度ロシアに行った時よりも良かったが、試合会場が各地に散らばりすぎているため移動が困難で、取材スケジュールが過酷を極めた。

それらを思い返せばカタールW杯は取材しやすい大会だったのは間違いない。また、今回の経験で国としてビッグイベントの運営力を身につけた。一部のスタジアムは取り壊し、大型のスタジアムも観客席を削減するというが、せっかくある施設を生かす意味でも国際大会を招致してもらいたいところだ。


矢内由美子

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。ワールドカップは02年日韓大会からカタール大会まで6大会連続取材中。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。