1976年7月、アメリカの名物トーク番組『ザ・トゥナイト・ショー』に一人の老人が招かれた。司会は懐かしのジョニー・カーソン。“キング・オブ・レイトナイト(深夜番組の帝王)”と呼ばれた彼の軽妙でありながら、セクシーな声は今晩のゲストをこう言い表した。「とてもカラフルな男です」

番組のオーケストラが演奏する、ベースボールの定番曲『私を球場に連れって』とともに登場した人物は、文字通り「カラフル」だった。彼が着ていたのは真緑のジャケット。綺麗に刈り込まれた会員制のゴルフ場を思い出させるような、徹底的な緑だった。そのゲストの名前はチャーリー・O・フィンリー。1960年から1980年までメジャー・リーグ球団、オークランド・アスレチックスのオーナーだった男だ。

ジョニー・カーソンは、フィンリーをカラフル(つまり、多彩で華やかな)と表現したわけだが、はっきり言ってそれはテレビショー的で、上品すぎる形容の仕方に思える。チャーリー・O・フィンリーの仕事は、ある意味で「野球の破壊」だったからだ。

DH制度〜「野球を汚す行為」の導入

ジョニー・カーソンは番組中に、オレンジ色の球体を取り出した。これはチャーリー・O・フィンリーの数ある奇想天外な発明の一つ、オレンジ色の野球ボールである。こっちの方が観客がボールをよく見ることができる、とフィンリー。次の話題は、野球のカウントについて。フィンリーは自信たっぷりに、“ボールは3カウントまで”を提案してみせる。「1878年はボールは9カウントまでで、ストライクは5カウントだったんだ」司会者の目をじっと見つめて語る。「3ボールになれば、ゲームがスピードアップし、ピッチャーはストライクを投げざるを得ない」

オレンジのボールとフォアボールならぬ“スリーボール”は、最終的には採用されることはなかったが、フィンリーの提案の奥にある「野球をもっとエキサイティングに」という理念は彼が亡くなった今の時代にも根付いている。

DHは、フィンリーが提案し採用された数少ない(?)改革の一つである。そして、もちろんと言うべきか当時は数多くの反発を招いた。アトランタ・ブレーブスの黄金期を築くことになる野球殿堂入り監督、ボビー・コックスの言葉を借りれば、DH制は「野球を汚す行為」らしい。

フィンリーがDH制を提案したのには理由がある。それは人気・実力ともにアスレッチクスが所属するアメリカン・リーグがナショナル・リーグに劣っていたということである。DH制が導入される直前の1972年、ア・リーグ全体の打率は.239、観客数はナ・リーグよりもおよそ200万人少なかった。

「お客さんはホームランを見に球場に来る。私の祖母が投げた球も打てそうにないピッチャーが打席に立つのより退屈なことを私は思いつけないね」フィンリーはそう言ったらしい。

結局、1973年のシーズンからDHは導入された。最初は3年間の試験期間が設けられていたが、DHがアメリカン・リーグの永久的なルールになったのはご存知のとおり。ちなみに、DHの誕生により史上初めてMLBを構成する二つのリーグは異なるルールのもと野球をプレーすることになった。

1973年4月6日、ボストンのフェンウェイパークでおこなわれたレッドソックスとヤンキースの開幕戦、1回表にそのときがやってきた。レッドソックスの先発は1番打者に安打を許すも、2番打者をダブルプレーに仕留めた。しかし、3番にツーベースを打たれ、つづく2人を連続で歩かせた。2アウト満塁の場面でMLB史上初めて指名打者に打席が回ってきた。ロン・ブルームバーグ。結果はまさかの押し出し四球だった。3回表、この日2回目の打席でブルームバーグはヒットを放った。しかし、後続が倒れ残塁。ブルームバーグは攻撃が終わったにもかかわらず、ベンチに戻らなかった。「自分がDHであることを忘れていたんだよ。そのままファーストの守備につこうとしたんだ」、のちにブルームバーグは回顧する。

DH制の導入は、よく言われるように打者にとっても投手にとってもメリットをもたらす。守備に不安がある強打者に新たなレギュラーポジションを供給したし、投手は打順の巡りのために試合から退かなくて済むようになった。ただ、DH制の導入はすべての投手が歓迎したわけじゃない。たとえば、フィンリーがオーナーを務めるアスレチックスの投手、キャットフィッシュ・ハンターなんかがそうだ。彼はDHが導入される2年前の1971年に打率.350、OPS.770の成績を残すほどの強打のピッチャーだった。

そしてもう一つ、その強打のピッチャー(もちろん投球も超一流である)について重要なことがある。キャットフィッシュ・ハンターこそ、フィンリーがもたらした別の改革、FAのもう一人の主人公なのである。そう、彼こそプロスポーツ史上初めてのフリー・エージェントなのだ。

FAの誕生、親の拘束から解放された青年のように

チャールズ・O・フィンリーをFAの生みの親なんて言ったら、MLBに詳しい方々に馬鹿にされるかもしれない。確かに、フィンリーはFAを積極的に導入しようとはしなかった。むしろ、FAはキャットフィッシュ・ハンターがフィンリーに反発した結果として認められた。言ってみれば、FAとは球団オーナーという強大な権力に対するカウンターカルチャーである。もちろん、それは選手に移籍の自由を与えるべきだという時代の要請であるわけだが、その一方で親の拘束から解放された青年のごとくFAは誕生したように映るのだ。

キャットフィッシュ・ハンターの本名は、ジェームズ・ハンターという。「キャットフィッシュ」は彼のニックネームで、フィンリーがその名づけ親だった。口元の髭がなんともナマズ(英語でキャットフィッシュ)のようだから、そういうニックネームがつけられたわけではない。由来は、ハンターが幼少のころ、ナマズを見つけるのが好きだったことから。ただ、ナマズのような口髭を生やすように言ったのは、フィンリーである。

キャットフィッシュ・ハンターは、アスレチックスのエースだった。まだ、チームがカンザスシティにあった1965年にハンターはメジャーデビューを果たし、67年に13勝を挙げるとそこから10年連続2桁勝利。74年には、投手最高の栄誉であるサイ・ヤング賞に輝いた。そして引退後の1987年、ハンターは野球殿堂入りを果たした。

キャットフィッシュ・ハンターがアスレチックスを去るきっかけは、フィンリーの年棒不払いだった。1974年、ハンターはアスレチックスと10万ドルで契約更改をすますが(1974年はまだ円相場が1ドル270円前後の時代である)、その半数の5万ドルが期日までに支払われなかったのだ。ハンターは税金対策として賃金の後払いをフィンリーとのあいだで約束していたわけだが、結果的にオーナーとエースは分裂することになった。

フィンリーの伝記『チャーリー・フィンリー:球界のスーパーショーマンのとんでもない話』は、当時の様子を詳しく記してある。

1974年10月、MLB機構の専属弁護士の仲介でフィンリーとハンターは話の場を設けることになった。
「キャットフィッシュ、残りの5万ドルだ」契約どおり、残りの給料を渡そうとするフィンリー。しかし、ハンターはそれを拒んだ。「申し訳ないけど、受け取るべきではないんです」

そして、MLB選手会のマービン・ミラー氏らはこの労使トラブルを調停制度に持ち込むことを提案した。調停制度とは、選手が苦情の申し立てを行える制度であり、当事者で解決できない場合は第三者によって仲裁判断が下される。選手会は、当時「奴隷条項」とも呼ばれた保有制度の撤廃を求めていて、フィンリーとハンターのトラブルはそれに風穴をあける絶好の機会だったのだ。

問題は、このフィンリーとハンターの分裂がメディアを通じて世間の好奇の目にさらされたということだ。しかも、それは1974年のプレーオフ中だった。

1970年代前半のオークランド・アスレチックスは、最強と言っても過言ではなかった。ピッチャー陣はハンターを筆頭にオールスター級の選手が揃い、打線にものちの“ミスター・オクトーバー”レジー・ジャクソンがいた。1972年と73年はワールドチャンピョンにも輝いた。そう、1974年のポストシーズンはアスレチックスのワールドシリーズ3連覇がかかっていたのだ。

プレーオフ期間中に意地悪な記者がハンターに尋ねた。「いまもまだ、アスレチックスのために戦っているのか」

「そうじゃなかったら、このユニフォームを着たりしない」とハンター。まさに、その通りだった。ワールドシリーズ進出がかかったオリオールズとのリーグ優勝シリーズ第4戦で、ハンターは7回を投げ無失点。ドジャースとのワールドシリーズ第3戦では、7.1回を投げ1失点と好投した。

アスレチックスは、ワールドシリーズ3制覇を果たした。ドジャースの最後のバッターがボテボテのゴロを放ってからわずか1時間後、選手会は調停委員会に申し立てをおこなった。その後、キャットフィッシュ・ハンターは晴れてFAとなった。

1996年2月19日、チャーリー・O・フィンリーは死んだ。フィンリーの家族や彼にかかわった(あるいは、振り回された)人々がその死を悼むなか、キャットフィッシュ・ハンターもコメントを残している。「フィンリーは10年も20年も時代の先を行っていた」

ハンターの言うとおりである。例えば、冒頭に触れた1976年の『ザ・トゥナイト・ショー』でフィンリーがのたまった「野球で最も馬鹿馬鹿しいこと」は、現在の球界では消えている。つまり、強打者を歩かせるのにわざわざ4球投げなくてはならない「敬遠」のことだ。今ではそれは審判に一言断るだけで可能になった。いわゆる申告敬遠がMLBで導入されたのは、2017年。10年や20年ではきかない。



<参考文献>
ジョニー・カーソン
https://www.youtube.com/watch?v=7yXucH1beH0
https://eiga.com/news/20121126/5/

ア・リーグ打率
https://www.baseball-almanac.com/hitting/hibavg4.shtml
1972年入場者数
https://www.baseball-reference.com/leagues/MLB/1972-misc.shtml

指名打者
https://www.usatoday.com/story/sports/mlb/2013/04/10/ron-blomberg-first-designated-hitter/2070687/
https://www.mercurynews.com/2013/05/08/how-the-designated-hitter-became-part-of-major-league-baseball/
https://www.history.com/this-day-in-history/american-league-adopts-designated-hitter-rule
https://www.mlb.com/news/ron-blomberg-enjoys-being-first-dh-c226912604

キャットフィッシュ・ハンター、スタッツ
https://www.baseball-reference.com/players/h/hunteca01.shtml

FA
https://baseballhall.org/discover/inside-pitch/catfish-hunter-signs-with-yankees
https://throughthefencebaseball.com/mlbs-first-free-agent-catfish-hunter/

フィンリーの伝記『チャーリー・フィンリー:球界のスーパーショーマンのとんでもない話』
決裂の様子p211
https://books.google.co.jp/books?id=cVBjXrHA9GwC&pg=PA241&lpg=PA241&dq=finley+free+agent&source=bl&ots=ZxwPoIwjIT&sig=ACfU3U0pSefr75f_a1gf-OUNeDJL3dSlOQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwje_46u197lAhVUI6YKHT_JAvsQ6AEwEXoECAkQAQ#v=onepage&q=free%20agent&f=false

調停制度
http://www.bizlaw.jp/serial_sportslaw_03_01/

アスレチックス、ヒストリー
https://www.baseball-reference.com/teams/OAK/index.shtml

ALCS4戦
https://www.baseball-reference.com/boxes/BAL/BAL197410090.shtml

WS3戦
https://www.baseball-reference.com/boxes/OAK/OAK197410150.shtml

フィンリーの死
https://www.nytimes.com/1996/02/20/sports/charles-o-finley-baseball-team-owner-who-challenged-traditions-diesat-77.html

棗和貴

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