プロテニスプレーヤーとしての大坂は、コート上で政治的発言はしていない

 大坂の存在感は、コート上だけでなく、彼女が出演するメディアや自身のSNS上でも大きい。日本やアメリカだけに留まらず、世界中へ大きな影響を及ぼすようになり、プロテニスプレーヤーであると同時に、インフルエンサーでもあると言っても過言ではない。

 大坂の存在を世界中に強く印象付けた出来事は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが発生していた2020年に起こった。

 女子プロテニスのWTAツアーは、新型コロナのパンデミックによって2020年3月から8月まで前代未聞の中断を余儀なくされた。ツアー再開後、大坂は、USオープン前哨戦に出場するためニューヨーク入りし、久しぶりとなる公式戦を戦っていた。8月23日、アメリカ・ウィスコンシン州で警官による黒人男性銃撃事件が起きたこと知って大坂は大胆な行動に出る。

 まず、準々決勝の会見を終えた後に、自分のエージェントのマネジャーに相談し、さらに大会側のWTAスタッフとも話をした後、翌日はプレーしないことを伝えた。もとよりボーイフレンドのコーデー氏の影響を受けて、黒人に対する人種差別へ抗議し、“Black Lives Matter”のムーブメントにも賛同して、自身のSNSから自分の意見を主張してきた。だからこそ、歴史的に根が深く、現在も続いている黒人差別を背景に起こった出来事を見過ごすことはできず、悲痛な叫びをSNSに書き込んだ。

「私は、アスリートである前に黒人女性です。今は私のテニスを見てもらうよりも、1人の黒人女性としてすぐに対処しなければならない、より重要な問題があるように感じます」

 さらに、大坂の人種差別への抗議活動はUSオープンでも続き、黒人差別にまつわる不幸な事件で亡くなった黒人の名前がプリントされたマスクを付けて、毎試合入退場を繰り返した。最終的にUSオープンで2年ぶり2度目の優勝をした大坂は、決勝までの7試合で7枚のマスクを披露して自らの目的を達成した。

「勇気あることだなんて感じていない。自分がすべきことしようとしただけです。私の言動によって、まず(人種差別への)気づきをもたらしたいです。そして、人々が議論してくれたらいいですね。それが私の思い描く理想です」

 こう語る大坂が、行動を起こすのは、彼女が尊敬し親交のあったコービー・ブライアント氏からの影響が大きい。ブライアント氏はプロバスケットボールNBAの元選手で、2020年1月に不慮の事故で亡くなったが、世界的な影響力を持っていた彼の遺志を大坂は受け継ごうとしている。

「彼を誇りに思いますし、彼のレガシーは、私の中で生きています。願わくは、将来(自分が彼のような)偉大な存在になれればいいですね」 

 この時残念だったのは、大坂が政治的発言をしているという誤った指摘があったことだ。中には、メディアさえも一般の声に交じって誤解を招くような間違った指摘をしているものがあった。あくまで大坂は、人道的な立場から人権問題に対してアクションを起こしたのであり、決して政治的なメッセージが含まれているわけではなかった。

 そもそもオンコートでプロテニスプレーヤーが政治的なメッセージを発信することは許されていない。では、なぜ大坂は、USオープンで黒人の名前入りのマスクを付けられたのか。2020年USオープンでは、「Be Open」というキャンペーンが展開され、人種、ジェンダー、SOGI(性的指向・性自認)などへの公正や平等のメッセージを身に付けることがグランドスラムで初めて許可された。“Black Lives Matter”がきっかけになったが、大会期間中に政治的なメッセージやヘイトスピーチでなければ、選手からのメッセージの発信が認められたのだ。つまり、大坂のマスク着用は、政治的メッセージではなく、人権問題に関するメッセージであると大会側の認可があったからこそ実現できたのだった。

スポーツに政治的なことを絶対に持ち込むべきではない

 オフコートで、大坂も含めたプロテニスプレーヤーたちが、個人的にSNSなどで政治的な発言をするのは本人の自由意志だ。だが、基本的にプロテニスプレーヤーとしてコート上で、政治的言動をすることは控えるべきであるとメディアとして主張したい。

 テニスに限らずスポーツに政治的なことを絶対に持ち込むべきではない。スポーツに政治を持ち込むことは、スポーツの根幹を揺るがすことに等しい。もし政治を介入させてしまったら、それはもはやスポーツと呼べるものではなく、競技の形を借りたプロパガンダだ。

 スポーツが政治に利用されたことは残念ながら過去にあった。ドイツの政治家であったアドルフ・ヒトラーが、1936年の第11回オリンピック競技大会・ベルリンオリンピックを政治的利用したのが、代表的な例といわれている。本来、平和の祭典であるはずのオリンピックが、旧ナチスのプロパガンダに悪用された。そして、ベルリンオリンピックでは、初めて聖火リレーが行われたが、プロパガンダの効果アップを狙っていたというのだから驚きだ。

 今や聖火リレーは、オリンピック開幕前の恒例行事となっているが、聖火リレーの始まりを知ったうえで、改めて現在のコロナ禍でその意義を考えると、聖火リレーとは一体何なのだろうという素朴な疑問が残る。最近、日本国内で頻発している聖火リレーの辞退ドミノは、各自いろいろな背景から辞退理由が発生しているのだろうが、旧ナチスが始めた黒歴史から鑑みると、それは評価されるべき勇気ある行動にも思えるのだ。ちなみに、1940年の第12回オリンピック競技大会は、東京での開催が予定されていたが、戦争が悪化して当時の日本政府が開催権を返上したため幻に終わった。

 新型コロナウイルスのパンデミックによって、2020年から1年延期となっている東京オリンピック・パラリンピック(以下オリパラ)は、幻にならずに済むだろうか。開催可否が日本国民の間で議論になっているが、たとえ強行開催されることになっても、新型コロナ封じ込めが間に合わないため世論から100%の支持が得られないのは、もはや確実だろう。新型コロナによる非常時が続いているのだから、オリパラ開催費用は、本来ならば国民全員を救済するための給付金などにあてがうべきなのではないだろうか。

 話を大坂に戻そう。

 2020年USオープンで、大坂が展開した黒人への人種差別抗議活動は、本人の予想以上に世界での反響が大きく、自身が今までに体験したことのなかった経験をしたり、かつてない感情に襲われるようになったりした。

「正直なところ、すべてのことが起こったニューヨークで、私は、今まで入ったことのないような非アスレチック(スポーツ分野と異なるよう)なスポットライトの中に入れられたような気がして、本当に怖くなってしまいました。自分が全く知らなかった話題をいきなり聞かれることが多くなり始めました」

 大坂は、人権活動家でも政治家でもなく、プロテニスプレーヤーだ。だから予防線を張ることにした。

「私は、その話題についての知識があるか、自分がこれから話す内容をほんの少しでも知っている時にしか話したくありません」

 2021年全豪オープン期間中に、東京オリパラ組織委員会の森喜朗会長辞任に関して、会見で大坂に質問がされる場面があったが、1度目はよく知らないので、また質問し直してほしいと明言を避けた。2度目に質問された際には、後任を自分勝手に選ぼうとした森氏と違って、大坂は、言葉1つひとつ慎重に選びながら思慮深い彼女らしい受け答えをした。

 また、全豪オープン開幕前に、大坂は、コロナショックにより世界各地でアジアコミュニティーが差別を受けていることについて訴えた。大会開催地であるメルボルンの中心街には、有名なチャイナタウンがあるが、新型コロナの発生源とみなされるような差別によって中華店から客足が遠のいている惨状を、大坂は目の当たりにしたという。だが、大会開催中、「純粋にテニスのことだけを考えていました」という大坂は、自分がなすべきことに集中しテニスに没頭した。賢明な判断だったと思う。

 昨年のUSオープン後、大坂は、自身のSNSで黒人の名前が入った8枚目のマスクを披露した。良い取り組みであることは間違いないし、継続すべきことでもある。ただ、一連の抗議活動によって、大坂の認知度が飛躍的に上がり、彼女への支持が増える一方で、有名人の悲しい性というかアンチも増えている。だから、最近の大坂の言動を見ていると、正直ちょっと危なっかしい印象を受ける場合もある。

 もともと大坂は、大人しい性格で、部屋でゲームをするのが好きなインドア派だ。普段から日本のマンガやアニメーションも大好きで、現在日本で大人気の「鬼滅の刃」(原作・吾峠呼世晴、集英社)も当然のようにチェック済みだ。

「最もお気に入りのアニメの1つです。本当に夢中になったので、母にも見るのを勧め、母も気に入ってくれた。アニメを見るのがとても面白かったんだけど、見終わってしまってから、マンガを読み始めて、読破しました。本当に好きな作品です」

 好きなマンガを楽しそうに説明する大坂は、普通の23歳の女性と何ら変わらず、コミケにいてもおかしくないぐらいマンガ愛に溢れている。また、大坂はとても家族思いで、「私にとって、一番大きなことは、いつも自分の家族を養うことができるということです。だからこそ、たくさんの試合に勝ちたいのです」と語っているほどだ。さらに、ツアーで世界中を旅しながら一緒に戦っている“チーム大坂”も家族のように思っていて、自分自身のためよりも、チームメンバーの喜ぶ顔を見たいと考えている。

「自分自身のことを考えていない時の方が、より良いプレーができているように感じます。それが道理にかなっているかどうかわからないけれど、私が自分のチームを考える時、自分自身のことを考える時よりもモチベーションが上がるのです」

 そんな心優しい大坂が、現時点でスポーツを政治的利用するアドルフになってしまう可能性は99.9%ない。ただし、人は変わることもある。もしかしたら、引退後に大坂が政治家に転身するかもしれない。いや、そんな先の未来の話は、今はやめておこう。

「私(大坂)を憧れのように思う少女と、いつか対戦が実現できるまで長くプレーしたい。私にとっては最も起こってほしい一番格好いいこと」と、自分が成し遂げたいことを語る大坂が、今後も輝かしい成績を残しながら、世界中の人々に良い影響を与え続け、プロテニスプレーヤーとしての職務を全うしてくれることを願いたい。そして、この拙文が、大坂をよく理解せず安易に批判する人たちへのアンチテーゼになってくれれば幸いだ。


神仁司

1969年2月15日生まれ。東京都出身。明治大学商学部卒業。キヤノン販売(現キヤノンマーケティングジャパン)勤務の後、テニス専門誌の記者を経てフリーランスに。テニスの4大メジャーであるグランドスラムをはじめ数々のテニス国際大会を取材している。錦織圭やクルム伊達公子や松岡修造ら、多数のテニス選手へのインタビュー取材も行っている。国際テニスの殿堂の審査員でもある。著書に、「錦織圭 15-0」(実業之日本社)や「STEP~森田あゆみ、トップへの階段~」がある。ITWA国際テニスライター協会のメンバー 。