シニアデビューした今季、世界最高得点を連発し、北京冬季五輪の「大会の顔」になるはずだった少女が、演技後は両手で顔を押さえて泣き崩れ、報道陣の待つ取材ゾーンをうつろな表情で通り過ぎる姿はあまりにも痛々しかった。
事の発端は、ROCがフィギュア団体金メダルを決めた翌日の2月8日。ストックホルムの検体分析機関が昨年12月25日のロシア選手権で採取したワリエワの検体から禁止物質のトリメタジジンが検出されたと報告したことだった。すぐさまワリエワは暫定資格停止の処分を受け、8日に予定されていた団体のメダル授与式は急きょ中止となった。
そこからはせきを切ったかのように世界中のメディアがこぞってこの問題を取り上げた。ワリエワの不服申し立てを受け、ロシア反ドーピング機関(RUSADA)の規律委員会が暫定資格停止を解除。それに対して国際オリンピック委員会(IOC)などがRUSADA規律委員会の決定を不服としてスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴したが、CASはこの申し立てを却下。世界反ドーピング機関(WADA)の規定で16歳未満は処分の軽減など柔軟に対応する「要保護者」とされる。「例外的な状況」を考慮してワリエワの出場継続を認める判断に、賛否両論が巻き起こり、報道はさらに激化。無言を貫くワリエワに対して、英国メディアを名乗る記者が「Did you take Drugs?」と質問、これにロシア人記者が「彼女はまだ15歳なんだ。失礼だろ」と憤慨し、記者同士で口論になる〝場外乱闘〟も起こった。
そんな中、驚かされたのは彼女の精神力のタフさだ。14日に下されたCASの裁定から30分後、試合会場の首都体育館に隣接される練習リンクに姿を見せたワリエワは、100人以上の報道陣が見つめる中、40分間の練習で4回転ジャンプやトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を一心不乱に跳び続けた。その数、50本以上。失敗は数えるほどの高い精度を見せつけ、練習後にはエテリ・トゥトベリゼ・コーチと体をのけぞるような仕草を見せながら談笑する様子もあった。
「サンボ70」。トゥトベリゼ氏はモスクワにあるこのスポーツクラブを「工場」、選手を「原材料」に例え、氷上練習だけでなく、バレエレッスン、筋力トレーニングなどシステム化した強化策で2018年平昌五輪女王に輝いたアリーナ・ザギトワら多くの名選手を輩出してきた。ワリエワは同氏に師事するため、2018年に母親と共に出身地カザンから西約700km離れたモスクワに移住した。当時すでに頭角を現し始めていた今大会金メダルのアンナ・シェルバコワと銀メダルのアレクサンドラ・トルソワとともに同氏から徹底した管理の下で鍛え上げられた。
シニアに転向した今季は、サルコーとトーループ2種類の4回転ジャンプやトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)、そして抜群の柔軟性を生かしたスピンやステップで観客を魅了。世界最高得点を連発する圧倒的な強さに「誰もが彼女に勝つことを諦める」との意味合いから「絶望」の異名も付けられた。平昌五輪4位の宮原知子(木下グループ)や18年グランプリファイナル女王の紀平梨花(トヨタ自動車)を育てた濱田美栄コーチも五輪前の取材でワリエワについて「ちょっと調子が悪くても冷静に自分を取り戻す心の強さがある。スタイルも感性も全て整った選手。見習うことばかり。細く見えるけど体が厚い。丸い体をしている。手足が長いのであまり太く見えないが、しっかりした筋肉がついている。厳しいトレーニングをしている証拠。1日や2日頑張ってもあんな体にはならない。日頃からすごい厳しい練習をやっていると思う」と、その能力の高さを絶賛していた。
団体ではSPとフリーも演技して1位となり、ROCの金メダル(まだ決まってはいないが…)に貢献した。特にフリーでは4回転トーループで転倒がありながらも、ほぼ完璧に演技した2位の坂本花織(シスメックス)に30点以上の大差を付ける圧勝ぶり。華々しい五輪デビューに注目度が増す中での衝撃のスキャンダルだった。
陽性反応を示した禁止物質トリメタジジンは、狭心症や虚血性心疾患の治療に用いられ、ロシアでは薬局で購入できる身近な薬。血管拡張による血流促進効果があり、アスリートが使用すると持久力向上が期待できるという。
この効能を聞いて、一つ思い出したエピソードがある。「サンボ70」でワリエワの練習を見たことがあるフィギュア関係者は、その練習量に驚愕したという。1枠のレッスン時間は1時間半。8~10人程度が一緒に滑り、最初の30分をスケーティングの練習に充て、残りの1時間はジャンプと各選手の演目の音楽を流した通し練習が行われる。この曲かけ練習、1人多くて2、3回が通常の中、ワリエワは多いときは10回こなしていたという。もちろん途中で止めることもあるが、その練習量は際立っていた。わずかなステップのずれも許さないトゥトベリゼ氏が音楽を止め、もう一度最初からやり直す。ワリエワは泣きながらも食らいつきながらこなす。それが毎日3枠。「どうやったらあんな練習をこなせる体力がつくのか」。今回の件と関係があるわけではないが、その言葉がふと思い浮かんだ。
周囲の雑音に耐え続けて迎えた17日のフリー。シェルバコワとトルソワが驚異的な得点を出すのを見届けて最終滑走のリンクへ。自己ベストを出せば、2人を上回ることはできたが、そこに今季、世界最高得点を連発してきた圧倒的な姿はなかった。ドーピング問題への抗議の意図か、演技前、男子王者のネーサン・チェンら米国選手団が一斉に観客席から立ち上がり、会場を後にした。異様な雰囲気の中、演じたバレエの名曲「ボレロ」は誰もが予想しなかった結末に。平静を装ってきたが、心は限界だったのだろう。世界中の注目を集めた天才少女は失意のまま、北京を去ることになった。
揺れたオリンピックのドーピング問題 天才少女ワリエワに一体なにがあったのか
天才少女を待ち受けていたのは大波乱の結末だった。ドーピング問題の渦中にいた15歳のカミラ・ワリエワ(ロシア・オリンピック委員会=ROC)はショートプログラム1位で迎えた17日のフリーで、これまでの練習でも見たことがないほどの大乱調で4位まで転落。大会前の圧勝するとの下馬評は大きく覆り、メダルを取る可能性すらつかめなかった。
フリーの演技を終え、顔を覆った (C)共同通信