国の指導者が下した身勝手な判断によって、才能と技術を磨き抜いたアスリートからその実力を発揮する場を奪っている。その一方で、厳しい戦渦にあるウクライナの選手の中には、肉体的、身体的にも限界の状況に立たされながらも、国民に希望、そして世界に悲惨な現状を伝えようと奮闘しているアスリートもいる。国を代表するからこそ、理不尽な戦争という行為に対して、選手たちも決して無関心ではいられない。先月26日に閉幕したフィギュアスケートの世界選手権(フランス・モンペリエ)はそのことを改めて痛感させられる大会となった。

 ウクライナ勢の先陣を切って登場したペアのソフィーア・ホリチェンコ、アルチョム・ダレンスキー組のショートプログラム(SP)の演技が終わると、ひときわ大きな拍手と歓声が2人へ送られた。スタンディングオベーションの観客の多くがウクライナ国旗を掲げ、そこには「We stand with you」(あなたたちとともにいます)「Peace」(平和)と書き込まれているものもあった。結果は14組中13位。準備不足は承知の上だったが、ホリチェンコは「体よりも心を準備する方が難しかったけど、私たちを応援してくれる人がいる。ウクライナ選手がここで戦っていること、ウクライナ人の強さを示したかった」と、出場に至った強い思いを口にした。

 生半可な道のりではなかった。2月の北京冬季五輪で団体に出場して戻った母国はすぐに緊急事態に陥った。戦火を逃れるためにウクライナ中東部のドニプロにいた2人は隣国ルーマニアまで来るまで16時間移動し、空路でイタリアを経由してポーランドへ入った。世界選手権まで練習できたのはわずか数日。それでも「国民を元気づけたかった」と、当初からフリーで棄権することを決め、SP曲をウクライナで有名なロックバンドの曲に変更し、いまできる力の限りを2分40秒の滑りに込めた。母国には家族が残っている。ダレンスキーは「家族はキーウに居て、毎日爆発が起こっている。昨日は一日中、外出できなかったみたいです。友人たちはみんな国を支えるためにできる限りのことをしている」と硬い表情でありのままの現状を報道陣に伝え、会場を後にした。

 今大会、ウクライナから出場したのは、ペアとアイスダンス各1組と男子1選手の計5人。男子でキーウ出身の20歳、イワン・シュムラトコは「今は他の色を受け入れがたい」と競技用の衣装ではなく、国旗の青と黄色を基調とし、背中には「UKRAINE」の文字が入った同国代表のTシャツ姿で演技した。ウクライナに残る家族もいるといい「全てのウクライナ人、自分の国とともに滑った」と悲痛な表情で話した。アイスダンスのオレクサンドラ・ナザロワ、マクシム・ニキチン組も、青と黄のTシャツ姿でリンクに立った。ハリコフ出身の2人。北京五輪後から穏やかな生活は一変し、ナザロワは「戦車を見た。銃声も聞いた。私の家にはもう窓がない」と壮絶な戦場の一端を話し、ニキチンは「この21世紀に国が攻撃されるとは誰も信じなかった。世界中が困難な時期にある。戦争を止めるのを手伝って下さい」と切実に訴えた。その言葉は、あまりにも重い。

 今大会、ウクライナ選手だけでなく、上着の胸にハート形のウクライナ国旗をつけて登場する他国の選手、コーチらの姿を多く見た。そして、フィギュア強国ロシアの不在を嘆く声はほとんど聞かれなかった。ウクライナ選手が満足いく形で参加できないのに、ロシア選手が優勝争いを演じ、表彰台に立つ、そんな姿に違和感を持っている関係者は多いように思われた。思えば、北京冬季パラリンピックは、国際パラリンピック委員会(IPC)が大会開幕2日前にロシアとベラルーシ選手の個人参加を容認しながら、その決定に複数の国が不参加の意向を示す想定外の反発が起き、翌日には一転、参加除外を発表した。国際政治にスポーツが翻弄されて分断を生む、パラリンピックが掲げる「共生」「連帯」の理念からおおよそかけ離れた事態となり、アンドルー・パーソンズ会長は「この特殊な状況下でスポーツと政治を切り離すのは不可能だった。限度を超えた」と苦渋の決断を説明した。その答えは、「スポーツと政治は別」という価値観の限界を示した。

 国際オリンピック委員会(IOC)は、全ての国・地域の選手が一堂に会することが「平和の祭典」である五輪の最大の意義としている。2年後にはパリ五輪を控える中、この崇高な理念と現実の折り合いをどうつけるのか、我々も注視していかなければならない。


VictorySportsNews編集部