プロ向き

 「新型コロナウイルス禍になってうちの学校で稽古ができなくなったときでも、他の学校などへ出稽古に行きたいと言ってきたりしていました。以前から向上心が強かったですね」。こう須山を評するのは東大相撲部の創設者で、OB会長でもある櫟原(ひらはら)利明さん。元参院法務委員会調査室長で、現在はアマチュアを統括する日本相撲連盟の常務理事などを務めている。

 櫟原さんによると、須山は入部当時、体重70キロちょっとで特別目立った存在ではなかった。それが稽古に励んでたくましくなり、4月に実施された日本相撲協会の新弟子検査では180センチ、104キロの体格に成長した。角界入りのはなむけにと、櫟原さんが4月にぶつかり稽古で胸を出した際にはやはり、入部したころとは当たりが全然違っていたという。

 埼玉・市立浦和高から一度は慶大に入学した須山は東大への憧れを捨て切れず、大学1年の冬に3度目の挑戦で合格。格闘技に興味があり、入学してから相撲部の見学に行ったことがきっかけで魅力にはまった。現在24歳で文学部の4年生でもあり、力士になっても週1回の通学の日々がある。

 夏場所の前相撲では、強豪の日体大で副主将を務めていた今関(玉ノ井部屋)を力強く破るなど、3連勝して早々に出世を決め、7月の名古屋場所から番付にしこ名が載ることが決定した。大学時代の試合なら、東大生が日体大の選手を破るのはちょっとした“波乱”だ。この相撲をインターネット中継で視聴していた櫟原さんは「今関くんに勝つなんてびっくりしました。ただ、物おじしない性格で、学生時代もたまに“大物食い”をしていました。そういう点ではプロ向きだと思います。でも、うちの部から大相撲の力士が出るなんて夢にも思っていませんでした。結果として素晴らしいし、感慨深いですね」。

度重なるメディアからの注目

 その歴史は1975年に始まった。相撲が大好きだった櫟原さんが同志を集め、同好会としてスタートした。櫟原さん執筆の回顧録「草創期の頃」によると、「身近な友だちを2~3人かき集めて、昭和50年の10月、秋休み中に駒場グラウンドで旗揚げ稽古を行った」とある。当時の稽古場といえば、ラグビー場の横のグラウンドに石で地面に円を描いて土俵に見立てた場所だった。

 まわし姿で土俵に立ち、自らの体一つで勝負する相撲と、勉強を積み重ねた学生が集まる東大。一般的にギャップがありそうなものが結び付く状況ゆえか、実は今回の須山同様、東大相撲部は過去に何度もメディアの注目を浴びたことが回顧録には記されている。例えば1977年9月2日に学生相撲連盟に加入し、同18日に東日本リーグ戦に参戦して公式戦初出場を果たした当時。一連の流れの中で、スポーツ紙に「東大相撲部誕生!」と大きく記事が掲載され、連日のようにメディアの取材を受けて新聞、週刊誌に次々に報じられたという。リーグ戦本番でも選手たちの一挙手一投足にテレビカメラが向けられていた。

 翌年の9月に念願の道場が完成。土俵開きには大相撲の花籠部屋に所属していた魁傑(最高位は大関)や荒勢(同関脇)らが駆け付けて船出を祝い、相撲部員が現役関取の胸を借りる写真が残っている。回顧録には「関係者やマスコミの他に多くの一般学生が見物に押しかけ、完成早々上がり座敷の床が抜けてしまった」との記述があったほどだ。

 現在、部のホームページを開くと「全員初心者から始めています!一生に一度しかできない体験を!」「競技に必要なのはまわしのみ。そのまわしも支給します。初期費用がかかりません!」などのメッセージが躍り、年中部員を募集しているとある。新型コロナ禍が本格化する前には元関脇安美錦の安治川親方が稽古をつけに訪れるなどプロとも交流。一般の在学生には縁遠い存在かもしれないが、日大や日体大、東洋大、近大などの強豪校とは違い、今も昔も東大相撲部ゆえに関係者やメディアの目を引く部分がある。

安定や高給より…

 須山は以前、卒業後は商社か外務省にでも入ると漠然とイメージしていたという。転職や就活のサイトなどによると、キャリア官僚や商社勤務者の生涯収入は約5億円に上るとされる。かたや角界では頂点の横綱が月給300万円で、勝って手にする懸賞金などを合わせて年収1億を超えると推定される。ただ、月給を手にできるのは110万円の十両より上のわずか70人のみ。場所ごとの手当は別にして、幕下、三段目、序二段、序ノ口の数百人には支払われない。須山は見込まれたであろう安定や高給よりも自分自身の夢に懸けた。

 高学歴力士として有名なのは早大出身の笠置山。出羽海部屋に在籍して戦前から戦中にかけて活躍し、最高位は関脇だった。その名が後世に伝えられる要因の一つは、当時無敵を誇った横綱双葉山への対策を練った参謀役だったからだ。映画館に行ってニュース映画で双葉山を研究し、「右足を狙え」という結論に至った。双葉山の連勝を69で止めたのは同部屋の安芸ノ海。笠置山の研究の成果を生かすような左外掛けで倒した。

 また、現役時代から相撲評論、随筆などを書き多才を誇った。元横綱審議委員会委員長で作家の故舟橋聖一の著書「相撲記」には、巡業の支度部屋に取組を終えた笠置山を訪ねていった際の様子が「悠々として、床山に、髪を結い直させながら、『中央公論』を読んでいた」としたためられており、インテリぶりが伝わってくる。引退後は年寄秀ノ山を襲名し、相撲協会のスポークスパーソン役を務めた。

 笠置山のように引退後に親方になるのかを含め、須山の将来は土俵上での結果にかかっている。本人は母校にちなんで「東大なので東大関を目指していきたい」と目標を掲げており、楽しみだ。櫟原さんはアマチュア相撲普及を念頭に「相撲が大きな男だけのスポーツではなく、女子も含め、体が小さい人とか誰でもが取り組めるというアピールにつながればうれしいです」と期待を口にした。それと同時に「これまではとにかく好きで大相撲を楽しんで見ていましたが、これからは須山くんの取組を胃が痛い思いで見なければなりません」と親心も吐露。関心が集まる宿命を背負い、須山の力士人生が始まった。

高村収

著者プロフィール 高村収

1973年生まれ。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事