すれ違ってるなあ

 ロッカールームでも、記者たちの囲み取材でも、内田監督はほとんど同じ話をしていた。その言葉の心意を理解した者と、そうでなかった者と、どちらが多かったのかは分からない。だが少なくとも、コーチの井上と宮川の胸中が重なっていなかったことは確かだと、その場にいたひとりは言う。

「監督の話が終わった後は、ポジションごとに固まってコーチの話を聞きます。自分はディフェンスラインではないのですが。『しんどい中、あれだけファイトして……なんで(テントで)泣いてたん?』というようなことを、井上コーチが言って。そうしたら、宮川が、なんか『相手に申し訳ないと思って』みたいな返事をして。
 そうしたら、コーチがめちゃくちゃ怒って、『申し訳ないと思うんだったら、最初からやるな! その変な優しさが、お前の壁になっとるんや』みたいに、いきなりデカい声出して。
 正直、どっちの気持ちも分かるんで、うわぁ、すれ違ってるなあって。他の奴らも、そんな感じだったんじゃないですかね。奨さん(井上)も、そんなに肩入れしなくてもいいのにっていう気持ちもあったりして。宮川、このところ調子悪かったんですよ、ずっと。当たりも弱いし、練習でも妙に優しいし。あっ、優しいって、別に褒め言葉じゃないですよ*」(前出・ロッカールームにいたひとり)

その夜

 ロッカールームでわだかまりが解消されることもないまま、寮で生活している選手は寮へ、コーチ陣は学校へ、自宅から通っている宮川は帰宅して、この日のフェニックスは解散したそうだ*。

「井上さんは、試合の後、学校に戻っていましたね。宮川のプレーに納得していなかった様子で、何度も試合のビデオを確認していました。夜の9時過ぎとか、それぐらいには(学校から)帰ったと思います」(日大関係者)

 だが、別の証言もある。

 自宅に帰ったはずの井上が、その日の夜中、今度はフェニックスの学生寮にいたというのだ。

「家に帰ったかどうかは知りません。でもたしか、コーチは子供が生まれたばかりだったはずなので、普通に考えたら1回は帰っているんじゃないですか。おれが会ったのは、夜中の、それこそ12時とかだったかな。
 キャプテンとか、4年中心に集められて『ネットで騒ぎになっとるが、あいつは闘志を見せたんや。チームとして、宮川を護ったれよ』みたいなことを言われました。言われてなくても、そのつもりでしたけど。ネットで、ちょっと信じられないぐらい、ボロカスに炎上してたんで、みんな動揺はしていました」(当時は現役だった、フェニックスのOB)

 後に、日大が設置した第3者委員会による最終報告書には記載されていないが、この日、井上は、寮で学生たちと話すだけでなく、前後して宮川に電話も入れていたという。

「試合の次の日だったかな、井上さんに会いましたよ。あの人は(専任のコーチではなく)日大の職員だから、日中は普通に事務仕事をしています。タックルのことはもう、けっこうネットでは話題になっていましたね。『あの子(選手)、大丈夫なんですか?』と聞いたら『あの夜も、(宮川は)友達と渋谷で飯を食ってたみたいだから、まあ、大丈夫なんじゃないですかね』なんて、笑顔で言ってましたけど」

 話を聞かせてくれたのは、出入りの業者。この騒動までは、アメリカンフットボールを見たこともなかったという。

「だから、普通に聞いたんです。ネットで見たんでね。素人として普通に見たら、けっこうヤバいじゃないですか。相手の選手がボールを持っていないことぐらい、私らでも分かります。そこに、ああやってタックルに行くっていうのは、普通の人間の感覚からすれば、まあ、悪質に見えますよね。だから聞いたんです」

 すると、井上は「う~ん、まあ、そういう単純な話でもないんです……たぶん、ごりごりのコンタクト・スポーツをやっていた人にしか分かってもらえないと思うんですけど……あいつ(宮川)、才能あるんですよ……思い切って勝負してほしかった……パニックになっちゃったんだろうな……でも、それはコーチの、自分の責任で」というような、解説をしてくれたという。

第5回につづく

* 日大フェニックスのスターティングメンバ―は、同チームの寮で生活するのが慣例だという。宮川も1年時、2年時の秋シーズンは入寮していたが、日本一を経験し、名実ともにチームの柱となった3年の春シーズンは、入寮を拒んでいる。この選択が、当時の彼のモチベーションの低下の証左だと語る者は少なくなかった。


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全国紙記者、週刊誌記者、スポーツ行政に携わる者らで構成された特別取材班。