歯の詰め物に似た喪失感

 オンラインで開催されたワークショップは題して「どんな選択肢がある? ~引退を迎えたアスリートのその後~」。目玉企画はゲストパネラーによるディスカッション。メンバーは米プロバスケットボールNBAの元チアリーダーの平田恵衣さん、看護師として働きながらプロサーファーでもある庵原美穂さん、会社員と同時にパラ陸上選手でもある銭場望美さんの3人。それぞれの経歴を踏まえながら苦労話や逆境を乗り越えた経験談、人生に対する考えを披露し、参加者の興味を引きつけた。

 平田さんは大学を卒業して一般企業へ就職後、夢を捨て切れずにNBAチアリーダーに挑戦。オクラホマシティー・サンダーに合格し20代後半で渡米した。世界中で一握りしかなれない狭き門。毎年トライアウトを受けなければならない過酷さがあり「来年の今頃、自分は何をしているのか分からないという恐怖感がありました」と述懐した。そんな中でも果敢に挑み、途中帰国を挟みながら通算6シーズンも務め上げた。

 最終的に2022年に引退し、今はチアダンスコミュニティー「Dance with Kei」の代表や振付師などとして幅広く活動している。現役を辞める際の心境について「競技を離れたときの生活の変化は何度やっても難しかったです。

 アイデンティティーがなくなることは、歯の詰め物がぱかっと外れたような喪失感。なかなか埋まりませんでした」と告白した。それでも、スポーツ関係を含めてさまざまな業界の人たちと積極的に交流したり、常に多方面にアンテナを張ったりして前向きな姿勢をキープ。日本スポーツ仲裁機構の職に就いたこともあった。「一回一回のチャンスにどん欲に挑むマインドや、環境の変化に適応するスキルが身に付いたと思います。自分の価値がなくなるわけではないので、全力でキャリアを楽しむことが大切だと思います」と力説した。
 

理念先取りの両立

 MAEは、アスリートが「ひとりの社会人」であることを自覚することにより、引退前後で変わることのない自らの価値を認識してもらうことを活動の目的に掲げている。競技人生と一般的な社会生活を両立させているのが庵原さんと銭場さん。MAEの理念を先取りしているとも捉えられる2人。多角的な指摘は示唆に富んでいた。

 庵原さんは看護学校に通っているときにサーフィンを始め、熱中。プロになって海外を転戦していた時期もあり、国内では2011年から日本プロサーフィン連盟(JPSA)のグランドチャンピオンに3年連続で輝いた。42歳の現在は千葉県鴨川市の病院に正規で勤務。職場の協力も得て活動している。「仕事もサーフィンも生活の一部で、両方で支え合っています。これからも年齢にとらわれず、諦めずにチャレンジする姿を見せていきたいです」と意気軒高。その上で、「やりたいことに全力で取り組むことが大切。ただ、トップに上り詰めた後で視野を広げることは大事で、そこは使い分けが必要だと思います」と長期的なキャリアづくりに対する意識を説明した。

 銭場さんは以前サッカーに打ち込むなどスポーツ好きで、小学生時代の病気により右が義足となった。社会人3年目の現在はウェブ関連の会社に勤務しながら走り幅跳びに励んでいる。大学時代の恩師の言葉が印象に残っているという。「競技を辞めてからの人生の方が長い」。銭場さんによると、パラスポーツというとみんながパラリンピックを目指しているとのイメージを持たれやすいというが、健康維持のためにも競技を続けている。陸上が与える好影響は多岐にわたり「幅跳びは動作を一つ変えれば記録が伸びることがあります。時間をかけていろいろ考えることは生活や仕事にも生き、ポジティブに取り組めています。

『選択が正しかったかどうかを決めるのはその後の行動』という言葉が好きで、そういうマインドで頑張っていきたいです」と、競技と実生活の好ましいバランスを挙げた。

不可欠なエンパワーメント

 パネルディスカッションは、現役の若手選手に大きな刺激を与えた。ワークショップに参加した一人に、ホッケーで日本代表の経験もある1996年生まれの坪内萌花がいる。岐阜県出身で強豪の各務野高、天理大と進み、何度も全国制覇を果たすなどエリート街道を歩んできた。華々しい実績の一方、苦悩もあるという。「これまでホッケーの常勝チームでプレーし、狭いコミュニティーでレールに沿ったような生き方でした。自分から競技を取ったら何ができるだろうと思うこともあります」と明かす。

 それでもワークショップで貴重な議論に触れ、視界が開けた様子。「セカンドキャリアでアスリートではなくなった後の不安が以前に比べたら少なくなりました」と明るい口調だった。

 もちろん、アスリートに限らず、女性の自己実現や活躍、地位向上は万国共通で不可欠。2023年5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の首脳声明では「ジェンダー平等や女性のエンパワーメントの実現は豊かな社会の基本」と表明された。米国在住の平田さんはNBAの活動に触発され、社会貢献にも力を入れている。「地域のためになるプラットフォームを持つことも目標です。チアダンスコミュニティーの運営などを通して、女性や子どもたちのエンパワーメントにつなげていきたいです」と言及。大局的な視点を包含しているという点でも、意義深いワークショップとなった。

 組織名は「時代を創ること」を意味するMAE。強みは、引退後に一般社会に出て、早期のキャリア構築の改善について必要性を体感したアスリート経験者たちが主体となっていること。実体験を持つだけに後輩の選手たちにとっては強い説得力を持つ。代表の山田さんは今後のビジョンについて「まだまだ発展途上。これからも長く続けて、アスリートの皆さんにインスピレーションを与えられるような活動をしていきたいと考えています」。地道で確かな動きが、2024年以降もいろいろな場所で花を咲かせる可能性を十分秘めている。


高村収

1973年生まれ、山口県出身。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事