負けず嫌いだから、ここまでこれた
―野球との出会いは
地元・大阪で友達に「野球やらへん?」と誘われたのがきっかけです。よくある話でしょう? 兄弟がやってたわけでもなく、子供会の集まりでソフトボールチームに入っていたから友達が声をかけてくれたんでしょうね。
中学からはクラブチームに入ったんですが、ガチガチの本格志向で練習からしてだいぶ厳しかったです。僕はただ打って・投げて・楽しみたいぐらいの気持ちだったんで、「野球やめるわ」と親父に言ったらえらく怒れましてね。
男が一度決めたことは最後までやり抜けというタイプだったんで、息子の言うことに聞く耳持たず、しまいには監督のところに行って「絶対にやめさせませんので」と言い切られたもんだから逆に火がついて、「中3までは続けたるわ!」と腹をくくりました。
―言われるがままがイヤだった
シンプルに反発心・反抗心です。親父だろうがなんだろうが売られたケンカは買いますよと(笑)。ただあのとき親父があっさり、「そうか、やめとくか」なんて言ってたら今の自分はありません。そう思うと僕の野球人生は、負けず嫌いから始まったり転機を迎えてることが多いです。
中学でもそれなりに活躍できたので、高校でも野球を続けるつもりではいましたが、とにかく親元を離れたい一心だったので香川の高校から声がかかったときはめちゃくちゃうれしかったです。当時の尽誠学園は2学年上に伊良部秀輝、1学年上に佐伯貴弘、1学年下には谷佳知が在籍する強豪校でした。鳴り物入りで入ってくる選手たちと同じ舞台で戦えるのが刺激になった……よりも、家を出られたことの方がとにかくうれしかったです(笑)。
生まれ変わる覚悟が生んだ「リストラの星」
―甲子園には春・夏合わせて3回出場されています
プロに進むことは考えておらず、高校を出たら大学で教職をとるつもりでいました。ところが高3のドラフト当日、授業中に校内放送がかかり校長室に呼び出され、「宮地!おまえライオンズから指名されたぞ!」と。関西から出たことがほとんどなかったので、「西武?埼玉?……どこや?」って感じだったのを覚えています。西武では投手としてキャリアをスタートして、プロ1年目・開幕一軍に抜擢されたものの思うような成績は残せませんでした。そして3年目のオフ、打者への転向を決断。実はドラフト時点から「ピッチャーで結果が出なければ野手転向も視野に」という編成側のプランがあったようです。
西武には1994年から10年間在籍しましたが、2003年オフに戦力外通告を受けたときは頭が真っ白になりました。「俺には野球しかない」と思っていたつもりでしたが、いざ野球を失いかけると、本当にそれしかなかったんだと痛感。失って初めて気づくというのは、まさにこういうことなんだなと感じました。
セ・リーグ、パ・リーグに関わらず入団テストを受け、合同トライアウトにも参加しましたが結果が出ず、最後の最後にダイエー(現ソフトバンク)に拾ってもらえたとき、これが自分の野球人生を立て直す最後のチャンスだと覚悟を決めました。どこかにあった甘えを捨てて、ホークスで一から野球と向き合う決意を固めたんです。「1年間だけ時間をくれ」と家族に頭を下げ、単身で福岡に飛び込みました。
福岡ではキャリアを支えてくれた大きな出会いもありました。柔道の谷亮子さんと一緒にトレーニングをする機会があり、その流れで中橋治美さんと出会いました。中橋さんは福岡大女子柔道部やJR九州実業団柔道部の監督として知られる方で、その考え方や指導方法に大きな影響を受けました。トレーニングを通じて野球に対する価値観や向き合い方が変わり、キャリアハイを生む原動力となりました。
そうして移籍初年度に打率.310を記録し、05年には自己最多の125試合に出場。プロ16年目にして初めてオールスターゲームに選ばれ、規定打席にも到達。ベストナインにも輝いたことからついた異名が「リストラの星」──多くの中年世代の方から激励のお手紙をいただけたのは、自分の挑戦は無駄じゃなかったんだと心から思えました。
◇プロフィール
宮地克彦(みやじ・かつひこ)
1971年生まれ、大阪府出身。尽誠学園高校時代に甲子園出場を3度経験。1989年のドラフト4位で西武ライオンズに入団し、2004年には福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)へ移籍。その後、2007年に独立リーグの富山サンダーバーズへ加入し、同年をもって現役を引退。NPB通算成績は457試合出場、打率.275、12本塁打、111打点。引退後はソフトバンク、西武、そして独立リーグの栃木ゴールデンブレーブスでコーチとして指導に携わる。2019年からはエイジェック女子硬式野球部でGM兼コーチ、2022年に女子硬式野球部「九州ハニーズ」の監督に就任するなど、日本の女子野球界を牽引する指導者の一人。