プロローグ:初の五輪・世界選手権までの道のり

町田は2009-2010シーズンから本格的にシニアに参戦しフィギュアスケートファンの間では注目されていたが、髙橋大輔・織田信成・小塚崇彦の3強に隠れがちの存在だった。一般的に世間に知られはじめたのはISU・GP(グランプリ)シリーズ中国杯で初優勝した2012-2013シーズンからであろう。しかし層の厚い日本男子シングルの中では「第6の男」などとありがたくない呼ばれ方をすることもあった。

2013-2014シーズンを迎えると、本人曰く「去年GPファイナル・全日本と大敗し一度死を迎えた」FS(フリー)『火の鳥』を「再生」し、新たなSPに『エデンの東』を用意した。特に『エデンの東』は、作品に込めた町田の強い思い入れが「町田樹史上最高傑作」というキャッチコピーと共にたびたびメディアで取り上げられた。

原作小説に登場するキーワード「ティムシェル(timshel)」を独自に解釈し、それをコンセプトに据えて自分自身を氷の上で表現したという。その意味は「自分の運命は自分で切り拓く」などと紹介されることもあったが、町田は常に熟考し続けているこの概念を「言葉で説明するのではなく、演技で体現することが自らの使命」だと語っていた。

自信作のプログラムと精度の高い4回転トゥループをひっさげ、町田は念願の五輪へ向けて快進撃を始める。出場したGPシリーズ2戦で優勝、2年連続でGPファイナルに進出し4位。どこまでが意図的でどこからが天然なのか計りかねる独特な言葉選びのコメントが「町田語録」ともてはやされるようにもなり、ソチ五輪の有力な代表候補として一躍時の人となった。

一方で国内でも地方大会から出場し、例年より数多く試合をこなした。スケジュールは過密を極めたが、地道な歩みは報われた。全日本選手権2位となりついに初の五輪代表・世界選手権代表の座を獲得。ソチ五輪では総合5位の成績をおさめている。

ただ五輪ではSPで大きく出遅れた。この地元開催、初出場のワールドで雪辱なるか。会場のさいたまスーパーアリーナは町田が五輪出場を決めたゆかりの地でもある。オリンピアンとして再びここに戻ってきた彼がどんなパフォーマンスを見せるのか。注目が集まる中で演技は始まった。

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ワールドで結実した『エデンの東』

プログラムはもちろん『エデンの東』。足元を見つめて最初のポーズを構え、曲が始まるとゆっくりと天を見上げる。拳を握りしめる様はシーズンを通して力強さを増した。くるくるとポジションを変えながら滑り出し、清々しい旋律に乗って4トゥループ+3トゥループを決めると会場が一気に沸いた。続く3アクセルも成功、滑らかな着氷で流れるようにスピンへとつながった。

町田はポージングが美しく、所作のひとつひとつが印象的に目に映る。立ち止まってポーズをとっているのかと思ってしまうが実はほとんど足を止めていない。上体をきっちりと美しく決めて見せている時も足元はしっかり滑り続けているのだ。最後のジャンプ3ルッツも鮮やかに決まった。大歓声が合図のように、終盤の山場ステップシークエンスへ向かう。

丁寧にステップを踏み始めると、メリハリの効いたスケーティングのせいか、町田が音楽より微妙に先に滑っていくような、あるいは逆に音楽の後を追っているような、なんとも不思議な感じをうけた。しかし体中で音をも手繰り寄せるように激しく舞い、その腕を広げた瞬間には曲と振りがピタリと合っている。町田の方が音楽を操っているかのような力強さがあった。

ダイナミックな動きの後にたおやかな笑顔のスパイラル。リンクをいっぱいに使っての演技に見入っていると、時間の流れがそこだけ他と違っているような錯覚に陥る。町田が作りあげた空間は開放感に溢れ、風が吹く広大な風景を思わせた。

気がつけばフェンスギリギリまで滑り切っている。そこからすぐさま振り返り、リンク中央へ勢いよく駆け上がっていき天高く手を伸ばすと、会場の照明が町田に降り注ぐ陽光のように見え、ドラマティックな音楽と相まって希望を感じさせるシーンとなった。

最後のスピンが終わる前からパーフェクトの予感に会場は騒然としていた。上体をそらして天を仰ぎ、左腕をいっぱいに突き上げて町田がフィニッシュポーズを決めるやいなや、観客は一斉に立ち上がり割れんばかりの拍手を送った。満員のさいたまスーパーアリーナで起こるスタンディングオベーション。いくつもの応援バナーと日の丸が揺れる。それはめったに見ることのできない、鳥肌の立つような光景だった。

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しかし大喝采を浴びた当の本人は表情を崩さない。ややあって身を起こすと左腕を下ろして腰に当てた。立膝のまま右腕を真横にかざし、すました顔を軽く上げ胸を張って再度ポーズを決める。しばらくして立ち上がると胸に手を当てて、少しほほ笑んでゆっくりと四方にお辞儀をし観客に応えた。両手を広げ優雅に引き上げる際、かがんでそっとリンクを一撫でした。

これら一連の動作は、今までシーズンを通じて断片的に見られたものだった。ある時は歓喜のガッツポーズでかき消され、またある時は疲れか落胆からか、すぐに起き直ってしまったり浅いお辞儀で引き上げたりと、アスリートらしい一喜一憂のために一通りを見られることはなかったのだ。そのすべてがこの日全貌を現し、SPの一部のようにつながった。

『エデンの東』を「一つの舞台芸術の作品」としてクリエイトする、というのが町田と振付師フィリップ・ミルズのコラボレーションの大きなテーマだったという。「氷を去るその時までしっかりと演じ切れるように」心がけてきたプログラムが、この大舞台で芸術作品として結実したのだった。

エピローグ:高得点よりも幸せだったこと

リンクから上がって大西勝敬コーチとミルズに迎えられ抱擁を交わした時、ようやく町田は嬉しそうな笑顔を見せた。得点は自己ベスト更新の98.21。技術的には文字通りすべての要素に加点がつく出来栄えで、演技構成点では9点台が並んだ。この時点で暫定トップに立つと、羽生結弦やハビエル・フェルナンデス(スペイン)といった強豪が揃う最終グループの演技が終わっても、そのままSP首位にとどまった。

後日行われた男子FSで2位となり、総合順位では僅差で羽生結弦に優勝を譲ったが、SPでは1位のスモールメダルを獲得した。世界選手権男子シングルのもうひとつの金メダルだ。この完成された芸術作品は競技の上でも最高の結果をもたらしたのである。

だが得点を聞いた瞬間も、周囲の興奮をよそに町田は静かにほほ笑むのみだった。演技後TV局のインタビュアーにSP自己ベスト更新について聞かれ、彼はこう答えた。

「得点よりも、たぶんこれが今シーズン僕のベストの『エデンの東』だったので、ただただ幸せです。得点は別に置いといて、ほんとに自分のベストな『エデンの東』を皆さんにお届けできたということはとても自分を誇りに思うし、今とても幸せです」

あのSPを見せられた後では、それは嘘偽りのない心からの言葉だろうと納得できる、競技の枠を超えた圧巻の演技だった。

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VictorySportsNews編集部