(C) 下町ボブスレーネットワークプロジェクト

下町ボブスレーとジャマイカ代表をめぐる騒動の真実

21日、平昌のアルペンシア・スライディングセンターで滑走を終えたジャマイカ代表チームのパイロット、ジャズミン・フェンレイタービクトリアンは、「ここに来られたことを誇りに思う。でも、へとへと」と感想を漏らした。
 
翌22日、ジャマイカ代表チームのTwitter公式アカウントには、「すべてのファンとサポーターのおかげです!信じられない旅だった」というコメントともに、ジャマイカチームと写真に収まった下町ボブスレーネットワークプロジェクト推進委員会のメンバーの姿があった。

この数ヵ月、下町ボブスレーの事務局は平昌オリンピックを戦うジャマイカチームに提供するはずだったボブスレーに関する"世論"に頭を悩まされ続けてきた。あることないこと、ないことないこと……。契約違反、訴訟という言葉が飛び交い、対立は決定的と見られていた両者がオリンピックへの挑戦が終わったいまなぜこうして一緒に、しかも笑顔で写真に収まっているのか? 騒動を熱心にウォッチしてきた人の頭の中にはたくさんのハテナマークが浮かんでいることだろう。 
 
実はこの出来事の数日前、下町ボブスレーネットワークプロジェクトでジャマイカとの交渉に携わった委員長の國廣愛彦氏、広報チームの大野和明氏に取材をしている。Twitterの写真にも写っている國廣氏が平昌へ飛ぶ当日、その複雑な胸中を聞いていたのだ。
 
「正直に言えば腹が立っている。けど、このプロジェクトに関わった人間としていろいろな気持ちを抑えて向こうに行って、ジャズミンがんばれ! って応援したい気持ちもある。スーツケースの中にはジャマイカ国旗を入れていきます。それを振るかどうかまでは決めていません……」
 
平昌へはどんな気持ちで行くのか? もう「下町」のボブスレーが使用されることはないとわかっている段階で会場入りするという國廣氏は、率直な胸の内を明かしてくれた。
 
「現段階でこちらの一方的な憶測を交えて語るのは避けたい。でも、事実と異なることに関してはどんどんいっていきたい気持ちもある」
 
國廣氏も大野氏も取材を受けながら、かなり慎重に事実と感想を分けながら説明してくれたというのが取材してみての印象だ。

(C) 下町ボブスレーネットワークプロジェクト

夢のプロジェクトに立ちこめた暗雲

委細をご存じない読者のために経緯を簡単にまとめよう。いや、簡単にまとめられないほど入り組んだ話なので、ここでは客観的事実の概観だけをお伝えしよう。
 
下町ボブスレーネットワークプロジェクトは、「大田区から冬季五輪へ」を合い言葉に、2011年に立ち上がったプロジェクトだ。世界レベルの技術を持つ熟練工を多く抱える町工場密集地帯、大田区の有志が、冬季オリンピックで使われる「ボブスレー」を製作し、オリンピックを目指すという壮大な計画は、すでに国産ボブスレーで国際大会に初出場、ソチオリンピックでは日本代表から不採用通告を受けるなどの紆余曲折を経ていた。2016年、ジャマイカ代表から「正式採用」を勝ち取るに至り、2大会、7年越しの夢が叶い、今回平昌の地でオリンピックという晴れ舞台に挑むはずだった。

「だった」というのがこの騒動の肝だろう。文化の違い、慣習の違いに悩まされることはあっても、お互いがオリンピックでの活躍という大目標の下に団結し、二人三脚で進んでいたジャマイカチームとの共同作業は順調だった、しかし、オリンピック本大会まで数ヵ月に迫った昨年末、プロジェクト自体に暗雲が垂れ込める事態が起きる。

ジャマイカ連盟が、12月に行われたワールドカップで突如、ラトビアのBTC社製のソリを使用したのだ。ドイツで行われたワールドカップは、ソリの輸送時に行われていたストライキによって、下町ボブスレー10号機が予定通り届かないという緊急事態に見舞われた。

「本来ならば他社のソリで戦うのは契約にありませんよね。でもノーと言ったらジャマイカチームは得られるはずのポイントを失うことになります。『大きな夢のためなら』ということで応急的にレンタルソリの使用を認めた格好です」

國廣氏、大野氏ともに憤るのは、プロジェクトの公式ホームページにもある「ステッカー類も万全だった」点だ。

「憶測で物を言いたくないのですが、レンタルのソリが実は新型のBTC製のソリで、ステッカーも万全というのはちょっと考えづらいですよね」

本稿では、事実関係に対してどちらかに肩入れする憶測をなるべく排除したいと思うが、それまで紆余曲折を経て築いてきた「信頼関係」がこの一件でズレはじめたのは間違いない。

(C) 下町ボブスレーネットワークプロジェクト

下町ボブスレーはサプライヤーではなく、共同開発のパートナー

ドイツで行なわれたワールドカップで、ジャマイカは7位入賞を果たす。この結果がさらに思わぬ方向に事態を進める。
 
ワールドカップ入賞の好成績を受けてジャマイカ連盟は、下町側に機体のさらなる改善、改良を要望する。これは両者の関係性からするとむしろ当たり前のことで、別のソリの使用という事態は契約上、本来あってはいけないことだが、下町側としてはBTCとの比較で要求水準が上がったのなら、「望むところ」という心持ちだった。
 
そこから、取り沙汰されているレギュレーション違反の問題、ジャマイカ側が主張する安全性の問題が言われるようになってくるのだが、情報の受け取り手としてはジャマイカの主張を受け止める前に、いくつか了解しておくべき前提がある。
 
「一緒にやっていこう、良くしていこうというのが大前提ですよね」
 
國廣氏はソリをより良いものにしていこうという大前提でジャマイカと協力体制にあったと強調する。
 
「今回のソリは私たちのプロジェクトとは別に、100%ジャマイカ側の要望に沿って作られた機体があるんです」
 
広報としてさまざまな批判を受け止める立場にある大野氏も「みなさんにわかって欲しいこと」として、ジャマイカ側との協力体制のあり方について言及した。
 
「2016年の1月にジャマイカが来日しました。ここで、『一緒に世界を変えていこう』という話になったんです。ここでジャマイカチームに複数のソリを同時並行で提供することが決まりました。一台は下町スペシャル。僕たちがずっと研究開発を進めていた路線です。もうひとつは、通称ジャマイカスペシャル。これはジャマイカの要望で、ジャマイカチームの選手、メカニック、連盟の要望を100%反映させた機体になります」
 
この話を取材すると決まったとき、どうしても拭えなかったのが、スポーツの世界、勝負の世界と工業製品の違いを下町プロジェクトがどこまで理解しているのかという疑念だった。
 
最先端のテクノロジーや最新鋭の機器が、競技者にフィットしない。コミュニケーションがとれなかったゆえに素晴らしい技術がスポーツの世界では"宝の持ち腐れ"になってしまった例をたくさん見てきた。
 
いくら技術があっても「勘所」のわからない"サプライヤー"はいらない。ボブスレーというマテリアルを提供するサプライヤーならば、相手が「このソリでは勝てない」という以上、細かい契約はあっても、「敗北」には違いない。しかし、大野氏の説明は、こちらの疑念を払拭するものだった。ジャマイカスペシャルと呼ばれていた機体は、その設計段階からチームの要望に忠実に沿って作られており、途中経過においても、逐次先方のオーダーに応えて微調整が行われていた。つまり、下町プロジェクトは、ジャマイカにとってサプライヤーではなく、“共同開発・製作者"の位置づけだったのだ。

(C) 下町ボブスレーネットワークプロジェクト

即対応、即修正、お互いに負うはずだった“レギュレーションチェックを通す責任”

ジャマイカチームが日本の町工場の集合体である下町プロジェクトと契約を結んだ大きな理由のひとつに「こちらの要望を即座に、完璧にこなしてくれる技術がある」という点があった。
 
もちろんこの時点で下町側はボブスレーにおいて「ズブの素人」ではないが、ジャマイカ側は、世界でも有数のボブスレー製作のスペシャリストを抱えていた。ソルトレイクシティオリンピックの銀メダリストとして活躍し、設計者としてもBMWなどで実績のあるアメリカ人、トッド・ヘイズ氏がその人だ。
 
トッド・ヘイズ氏にはジャマイカ女子チームに提供するための画期的なソリの構想があった。それを実現するために日本の、下町の技術が必要だ、実現できるのは日本の技術力しかない! というのが初期段階の共通のオリンピックへのそしてメダルへ向けての希望だった。
 
「2016年の5月頃に、トッド・ヘイズさんが日本に来て開発会議を行いました。コードネームはOB2W。これが後の9号機=ジャマイカスペシャルになるわけですが、これに関しては、トッド・ヘイズさんのアイディアとリクエストを私たちが忠実に再現したものです」
 
ジャマイカの関係者が「スペシャル・ウェポン」と呼んでいたその機体は、トッド・ヘイズ氏が開発したOB1をさらに改良し(OB2)、女子選手向けにカスタマイズし“W"(Woman)の名を冠したまさに特別機だった。
 
「トッド・ヘイズ氏からもジャマイカの要望からも学ぶものはたくさんありました。この機体が完成すれば、メダルだって夢じゃない。彼らも私たちも本気でそれを目指していたし信じていました」
 
大野氏の説明の後、國廣氏も当時を思い返すかのように、やや興奮気味で話を補足してくれた。
 
後に問題になるレギュレーション違反もこちらの機体に関しては、設計通りに作って、違反があればその場で微調整という対応で問題がないはずだった。
 
「レギュレーション違反」という言葉が重すぎて、ニュ-スを受け取った人たちは「不良品を納品しておいて」と過敏に反応したが、技術者としてはレギュレーションの仕様書を見て「設計通りだと違反になるかもしれないから調整の対応をしよう」という体制だった。特別機、新型機ゆえに、直せる不具合は織り込み済みといっていい。
 
本来ともに「レギュレーションチェックを通す努力をする」立場だったはずのジャマイカ側が、突然立場を変えたという事情もある。肝心のトッド・ヘイズ氏がオリンピック前にジャマイカチームを離れたという事実も、事態を一層ややこしくした。

下町ボブスレープロジェクトはジャマイカと和解したのか? 写真に込められた真意

ジャマイカボブスレー連盟のクリス・ストークス会長は1月20日に「平昌オリンピックは下町のボブスレーで参加する」と両国大使館に表明した。 
 
ここからは報道されているように、採用・不採用どちらの正式な表明もないまま、下町プロジェクト側が回答を求める意味で契約不履行を訴え、プロジェクト、ジャマイカ双方のコミュニケーションすらないままついに本番を迎えてしまった。
 
今夜平昌に向けて立つというタイミングでの取材前、プロジェクトと選手、連盟の窓口になることが多かった國廣氏は、「連盟や選手に言いたいことは山ほどある。裏切られたという気持ちもある。連盟に対しても選手も一番会話したし、毎日のように話していろんなケアをした。私は選手が言い出した、連盟が言い出したとかそういうことはもうどっちでも良い」と、その時点で素直な気持ちを吐露してくれた。
 
今回の騒動をめぐっては、技術の点で言えば、「ボブスレーを知らないから」と攻撃され、契約サイドで見れば「甘い」と下町ボブスレープロジェクト側が一方的に断罪される立場に回った印象がある。しかし、「日本の技術を過信した下町側が、オリンピックでは勝てないばかりか安全性も担保されていないソリを勝手に作って、挙句ジャマイカに損害賠償を迫っている」という筋書きはあまりに事実に反する。ネットに出回ったデマに対する反証は兄弟記事に譲るが、今回取材に応じてくださったお二人のお話とお気持ちを伝えることで、明らかになることもあるはずだ。
 
下町プロジェクトが、ある時点までは、確かにジャマイカチームの一員であり、共同開発チームとして仲間だったことは、國廣氏の言葉からも痛いほど伝わってくる。
 
「選手が、たとえばジャズミンが『ごめん。こっちに乗ってもいいかな? どうしてもこっちのほうが乗りやすい、勝てそうだ』と言うのなら仕方ない。本人が私の目を見て謝ってくれたのならそれは受け入れられたかもしれない」
 
「ビジネスの前に」
 
國廣氏は話を続けた。考えてみれば、國廣氏、大野氏にしても、下町プロジェクトのメンバーほとんどすべてが、中小企業とはいえ、企業のトップ、経営者なのだ。いや中小企業だからこそ、トップがカバーしなければいけない範囲はむしろ広い。彼らがビジネスの話、経営の話を度外視して夢だけを追っているはずがない。
 
「ジャマイカにはいろいろな考えがあるだろうし、国際間の契約ならもっと厳しくしないとだめだったのかもしれない。でも私は日本人だし、気持ちを抑えて向こうに行って『ジャズミンがんばれ』と応援して彼女に何かを感じてもらいたい」
 
オリンピックでの滑走が終わった後、笑顔で写真に収まった両者が以前の関係に戻ることはもうない。それだけに、あの写真、あの笑顔には我々が考えるよりもずっと深い意味が込められている。
 
<了>

下町ボブスレーに関するネット情報は、どこまで本当か? 当事者に訊いた

平昌五輪に出場したボブスレー・ジャマイカ代表をサポートしていた、下町ボブスレーネットワークプロジェクト推進委員会(以下、下町PJ)。2月5日、彼らはジャマイカ側の契約不履行に関し損害賠償請求を予告したところ、ネット上で多くの批判にさらされた。しかし、実際の彼らはどのような人物なのか? 下町PJの中心人物である委員長の國廣愛彦氏、広報チームの大野和明氏に話を聞いた。(取材:VICTORY編集部)

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大塚一樹

1977年新潟県長岡市生まれ。作家・スポーツライターの小林信也氏に師事。独立後はスポーツを中心にジャンルにとらわれない執筆活動を展開している。 著書に『一流プロ5人が特別に教えてくれた サッカー鑑識力』(ソルメディア)、『最新 サッカー用語大辞典』(マイナビ)、構成に『松岡修造さんと考えてみた テニスへの本気』『なぜ全日本女子バレーは世界と互角に戦えるのか』(ともに東邦出版)『スポーツメンタルコーチに学ぶ! 子どものやる気を引き出す7つのしつもん』(旬報社)など多数。