「99%の満足感と1%の後悔」 代表引退を表明した長谷部の言葉

日本代表からの引退、という言葉を最初に使った選手は確か、中澤佑二(横浜F・マリノス)だったと記憶している。ジーコジャパンの守備の要として、2006年のワールドカップ・ドイツ大会を戦い終えてからしばらくして、満身創痍であることを理由に代表チームと距離を置きたい意向を示した。

当時の中澤は28歳。肉体的にも年齢的にもこれから、というタイミングでの代表引退表明は、日本サッカー界で馴染みが薄かったことと相まって大きな反響を呼んだ。約8カ月後の2007年3月に翻意して代表復帰を果たしたが、一方では中澤の考え方を踏襲する選手が増えていった。

岡田ジャパンが発足した2008年に加地亮(2017シーズン限りで引退/当時ガンバ大阪)と坪井慶介(現レノファ山口/当時浦和レッズ)の両DFが、2010年のワールドカップ・南アフリカ大会後にはMF中村俊輔(現ジュビロ磐田/当時横浜F・マリノス)とGK楢崎正剛(名古屋グランパス)が、それぞれ自らの意思で日の丸に別れを告げている。

そして、ベスト16に進出した西野ジャパンが刻んだ熱戦の記憶が色濃く残るロシア大会後には、MF本田圭佑(パチューカ)、DF酒井高徳(ハンブルガーSV)、そしてキャプテンのMF長谷部誠(アイントラハト・フランクフルト)の3人が代表引退を表明している。

本田に関してはロシア大会前から「集大成」という言葉を口にしていたこともあり、初志を貫いたと受け止められた。対照的に長谷部は自身のインスタグラムで突然発表したことと、何よりも3度のワールドカップでキャプテンを務めた代役の効かない存在に映ったことで、ひときわ大きな衝撃を与えた。

ロシアの地から帰国した7月5日。千葉・成田市内のホテルで開催された帰国会見に、日本サッカー協会(JFA)の田嶋幸三会長、日本代表の西野朗監督とともに出席した長谷部は「今は99%の満足感と1%の後悔がある」と、代表引退を公表したばかりの心境をこう語っている。

「これまでも目の前の1試合、1試合が最後のつもりで戦ってきました。もちろん、大会前に自分の心の中で代表引退を決めていた部分があったこともあり、今大会は一つひとつのプレーにより思いを込めていましたし、その分だけ、今は終わったという感傷的な気持ちがあります。普段は僕のことを、おそらくうっとうしく思っていたはずなんですよね。若い選手たちにいろいろ言うので。だからこそ(代表引退発表に)涙してくれる選手や、うれしい言葉をかけてくれる選手がいたことは、僕にとっては言葉では表せない喜びがあります。本当に素晴らしい仲間を持ったとあらためて思いました。(後悔の)1%はこれからのサッカー人生、その後の人生につなげていきたい」

(C)Getty Images

新米キャプテンに芽生えた自覚と責任感 放ち始めたリーダーとしてのオーラ

歴代最長の8年間に及んだキャプテン拝命期間を振り返れば、2014年のワールドカップ・ブラジル大会が一つのターニングポイントになっていると長谷部自身は振り返ったことがある。

「キャプテンとしてアジア予選を戦う中で、前回の2014年大会の時は任されてそれほど時間が経っていない中で、本当に手探り状態の中でやっていました」

代表で初めて左腕にキャプテンマークを巻いたのは2010年5月30日。ワールドカップ・南アフリカ大会の開幕を直前に控えた、イングランド代表との国際親善試合(オーストリア・グラーツ)の直前に岡田武史監督から大役を伝えられた。

当時の日本代表のキャプテンは、前述した中澤が担っていた。しかし、ワールドカップイヤーに入って不振に陥った状況を受けて、岡田監督はけがで戦列を離れていたGK川口能活(現SC相模原/当時ジュビロ磐田)を本大会メンバーにサプライズ招集。チームキャプテンに指名し、ピッチ外でまとめ役を託した。

しかし、中澤がゲームキャプテンを務めた、韓国代表とのワールドカップ壮行試合でも完敗。試合後には岡田監督がJFAの犬飼基昭会長に進退伺を提出する騒動も起こった中で、慰留されて続投を決意した指揮官は大会直前における大改革を決意する。

システム、大黒柱、守護神を次々と変えた中でゲームキャプテンも中澤から長谷部に代わった。悪い流れを断ち切りたかったと、後に振り返ったこともある岡田監督の大博打は吉と出て、生まれ変わった日本は2002年の日韓共催大会以来となるグループリーグ突破を果たす。

PK戦の末にパラグアイ代表に敗れた決勝トーナメント1回戦までの4試合を、長谷部は「プレッシャーを感じることなく振る舞えた」と振り返ったことがある。ピッチ上では中澤、ピッチ外では川口やリザーブに回った楢崎や中村が、26歳の新米キャプテンをフォローしていた。

長谷部本人にとっても青天の霹靂だったはずだが、実は取材する側も長谷部とキャプテンという肩書きをなかなか結びつけられなかった。しかし、南アフリカ大会後に発足したザックジャパンで、ゲームキャプテンではなくチームキャプテンを拝命した長谷部は、地位が人をつくるということわざを地でいくかのように、リーダーとしてのオーラを放ち始める。

中澤をはじめとするベテラン勢が選外となった新生日本代表の中で、チームをけん引する自覚と責任感が芽生え始めたのだろう。セリエAのACミラン、インテル・ミラノ、ユベントスなどで指揮を執ったアルベルト・ザッケローニ監督は、長谷部に対してこんな言葉をかけたという。

「今までいろいろなチームを率いていたが、本物のキャプテンと呼べるのはパオロ・マルディーニとおまえだけだ」

ミラン一筋で四半世紀もプレーし、4大会連続でワールドカップにも出場。そのうち2大会でキャプテンを務めたイタリアサッカー界のレジェンドと並べられるほど厚い信頼感を寄せられた中で、長谷部は持ち前の誠実さをフル稼働させ、常にチームを第一に考えた言動を心がけた。

ブラジル・ワールドカップの惨敗と、新たな決意

すべてが手探り状態でキャプテンを務めたからこそ、何事に対してもとにかく必死に取り組んだ。誰もがその人間性を愛し、尊敬の念を抱く一方で、超がつくほどの真面目ぶりで、時には融通が利かないようにも映った長谷部を語源とする造語もその過程で生まれている。

それは、「長谷部か!」――。代表チーム内で生真面目な立ち居振る舞いをした選手が、誰からともなくこんな言葉でちゃかされるようになって久しい。長谷部の特異なキャラクターは、いつしか代表が真っすぐに前へと進んでいくための羅針盤となってきた。

しかし、ブラジル大会ではザッケローニ監督のもとで完成させ、絶対の自信を持って臨んだ「自分たちのサッカー」が無残にも瓦解した。1勝もあげることができず、グループCの最下位で大会から姿を消した時の心境を、長谷部は今回の帰国会見の席でこう振り返っている。

「ブラジル大会を終えた時は、4年後のロシア大会に立っている自分の姿を、まったく想像することができませんでした」

当時の長谷部は30歳。チーム内の世代交代を加速させるためにも、自分よりも若い選手がキャプテンを務めた方がいいのではないか――。ザッケローニ監督の後任として就任した、メキシコ人のハビエル・アギーレ監督にこんな提案をしたこともあったが首を横に振られた。

理由は単純明快だ。八百長行為に関与した疑いでスペインの検察に起訴され、解任されたアギーレ監督に続いて、急きょ後任に就いた旧ユーゴスラビア出身のヴァイッド・ハリルホジッチ監督からもかけられた同じ言葉に、国境や文化、風習を超えて長谷部が信頼を得てきた証が凝縮されている。

「君は生粋のリーダーだ」

この瞬間から、長谷部は一つの決意を固めている。南アフリカ大会から無我夢中で務めてきた代表チームのキャプテンという仕事の中に、意識してある項目を加えた。6大会連続6度目のワールドカップ出場を決めた、昨年8月のオーストラリア代表とのアジア最終予選後にこんな言葉を残している。

「自分に対してできるだけ責任というか、プレッシャーをかけながらやってきました。一人でサッカーをするわけではないので、プレッシャーの中身はなかなか言いづらいんですけど、チームがいい形で試合に入れるように、雰囲気や監督とのコミュニケーションなど、さまざまな部分で常に自分ができることを考えてきました。その意味では、これまでよりも喜びは大きいですね」

ロシア大会出場をかけたアジア最終予選で、ハリルジャパンは歴代の日本代表チームでは初めて黒星発進を喫した。自信が揺るぎかねない状況で、歯に衣着せぬ直言を忌憚なくぶつけてくる、厳格なハリルホジッチ監督と若手や中堅選手たちの間に入る形で腐心した時期もある。

「監督は物事を本当にストレートにしゃべるので、選手それぞれの感じ方によっては、すごく勘違いされることもあると思うんですね。だからこそ、若い選手たちに対して、例えば『考え方が違う人と付き合っていくことによって、自分自身が変われることもあるんだよ』という話はしています」

長谷部の代表引退に涙した吉田麻也が抱いてきた思い

昨年3月に右ひざへメスを入れた長谷部は、前半戦で長期離脱を強いられた。ホームで苦杯をなめさせられたUAE(アラブ首長国連邦)代表の敵地に乗り込んだ、同3月の大一番を含めた4試合で代わりにキャプテンを務めたのはセンターバックの吉田麻也(サウサンプトン)だった。

吉田が代表に定着したのは、日本が2大会ぶり4度目の頂点に立った2011年1月のアジアカップ・カタール大会。ちょうど「長谷部か!」が流行り始めた時期であり、ボランチの長谷部の後方で、頼れる背中を介して発揮されるキャプテンシーの変遷を間近で見てきた。

あれから7年半。ハリルホジッチ監督の電撃解任を受けて、今年4月に急きょ就任した西野朗監督からもキャプテンに指名された長谷部とともに、日の丸への愛着と誇りを介しながら喜怒哀楽を共有してきた。だからこそ、吉田はこんな思いを抱くようになった。

「僕は『長谷部誠』にはなれないし、無理をしてハセさん(長谷部)みたいに振る舞う必要もない。僕にできるリードの仕方があると思うし、自分が信じる道、自分が正しいと思うリーダーシップを発揮できればと思っていました」

長谷部の代わりにゲームキャプテンを務めた時期に発した言葉だ。吉田に限らず、長谷部の後を継ぐキャプテンに求められる思考回路といってもいい。そして、代表における吉田のキャリアや最終ラインで放つ存在感、屈強な肉体と高度な判断力の両方が求められるプレミアリーグでプレーした6年間で培われた濃密な経験のすべてが、長谷部からバトンを引き継ぐ条件を満たしている。

長谷部の代表引退表明を受けて、ロシア大会のベースキャンプ地だったカザンで吉田はメディアに対応した。途中で感極まったのか、愛してやまない代表に自ら別れを告げるほど心をすり減らした長谷部を慮るように、人目をはばかることなく男泣きした。

新体制のもとで船出する代表で誰がキャプテンに指名されるのかも、ましてや誰が代表に選出されるのかも分からない。それでも、左腕にキャプテンマークを巻いても巻かなくても、やるべきことは分かっている。長谷部が見せてきた立ち居振る舞いをなぞることではない。長谷部が代表に注いできた熱き思いを受け継ぎ、次代を担う世代に言葉とプレーを介して伝えていくことだ。

(C)Getty Images

胸を打つ、長谷部が残した最後の言葉

「僕はどちらかと言うと、どの監督ともうまくいっちゃうのであれなんですけど……」

5人もの代表監督から変わらぬ信頼感を寄せられてきた理由を、長谷部は苦笑いしながら自身のコミュニケーション力に求めたことがある。裏表のない実直な性格は同時に、自らが発する言葉に対してすべての選手たちに耳を傾けさせる存在感の源泉にもなった。

そして、秘かに代表から引退する決意を固めた上で、3度目にして最後のワールドカップとなるロシア大会へ向けてこんな言葉を残していた。

「直前に監督が代わったという部分で、代表のキャプテンを任されてきた人間として強く責任を感じている。今回のワールドカップの結果次第で、日本サッカー界の未来は大きく左右されると思っている。個人的にはこれだけ長い間、代表に呼ばれていますから、キャプテンであろうがなかろうが、自分のやるべきことは変わりません」

開幕前の芳しくない下馬評を覆す形で演じた快進撃とともに、未来へ向けて力強い鼓動を脈打たせることができた。だからこそ、帰国会見で「代表に対して無関心な状況になることが一番怖いことだと思っていた」と長谷部が明かした本音を、バトンを託された者が共有しなければならない。

新生日本代表の始動は9月。チリ代表をはじめとして、国内で6つの国際親善試合を戦った後の来年1月に、2大会ぶりの戴冠を目指すアジアカップ・UAE大会に臨む。来年中には次回カタール大会出場をかけたワールドカップ・アジア予選も始まる中で、長谷部が残したこの言葉が胸を打つ。

「これからは僕も日本代表チームのサポーターです。一緒に日本代表チームに夢を見ていきましょう」

代表引退をファンやサポーターに告げたインスタグラムの最後を締めた一文は、再び走り始める日本代表が進むべき道をはっきりと示し、先頭に立って引っ張る新キャプテンを勇気づけるはずだ。

<了>

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藤江直人

1964年生まれ。サンケイスポーツの記者として、日本リーグ時代からサッカーを取材。1993年10月28日の「ドーハの悲劇」を、現地で目の当たりにする。角川書店との共同編集『SPORTS Yeah!』を経て2007年に独立。フリーランスのノンフィクションライターとして、サッカーを中心に幅広くスポーツを追う。