MGCとは9月15日に開催された、男女それぞれ上位2人が2020年東京五輪のマラソン代表に決まるという初試みのレース。PR事務局の発表によると、沿道には何と52万5000人が集まったという。

大会の概要が発表されたのは17年4月だった。その当時、日本陸上競技連盟の関係者は「マラソングランドチャンピオンシップという言葉が浸透するだろうか」と心配していた。たしかに耳馴染みはなく、しかも、カタカナのネーミングは「ダサい」との印象も付きかねない。その心配も無理もなかった。

そのMGCが大きなインパクトを残し、注目されたのは、今までにない革新的な代表の選び方であり、それが人々に支持されたからに他ならない。まず、そのコースは東京オリンピックと大体同じ。スタート、ゴール地点こそ新国立競技場が完成していなかったため明治神宮外苑だったが、それ以外は重なるコースだった。レース当日は晴天にも恵まれ、ゴール時の気温は約28度。東京五輪本番を想定した条件でリハーサルができる絶好の舞台だった。

上位2位が自動的に東京五輪の代表に決まる明確なシステムも、注目度が高まった大きな要因だ。従来は気象条件やコースの異なる複数のレース結果を比較して代表が選ばれていたが、選考はたびたび波紋を呼んでいた。その過去と決別し、〝一発勝負〟の真剣勝負。その舞台で繰り広げられた勝負は、男子は40キロ以降までもつれ、最後は中村匠吾(富士通)が優勝。女子は前田穂南(天満屋)が独走で力を示した。五輪の出場権が懸かったレースは誰もが認める、日本陸上史に残るものだった。レース前からテレビ、新聞、雑誌、ネット媒体などのメディア露出も多く注目の高さがうかがえた。

しかし、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長の鶴の一声で、五輪のマラソン、競歩の開催地が東京から札幌に移されたことで、そのMGCの意義も少し薄れた。「アスリートファースト」という大義を盾にした強権発動。これには日本陸上競技連盟の瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダーも会見で、「私の頭の中では、もう3年前から『東京でやるんだ』ということが刷り込まれている。急に札幌に行けと言われても、なかなか頭の中が切り替えられない」。麻場一徳強化委員長も「あってはならない決定だと思っている」と怒りをにじませる。

もっとも怒るのも当然である。札幌ではMGCの準備も水の泡と化すのだ。当然、最近は8月の札幌も暑い日もあるため、これまでの暑熱対策が完全に無駄とかすわけではない。しかし、本番コースを五輪の選考会という緊張感の中走ったのは、他の国にはマネできない最高の予行演習であり、開催国ならではの〝地の利〟だった。その優位性はなくなってしまうのだ。結果的には、毎年8月下旬に開催される北海道マラソンのコースで「MGC」をやった方が、本番に近い条件だったという話にもなる。

場所が変われば、当然、求められる能力も変わってくる。暑い東京では、スローペースのタフな戦いが見込まれるが、涼しい札幌に移れば、必要なのはアフリカ勢に対抗できるスピード。本番を見据え、MGCは暑さに強い選手を選ぶことも主眼に置かれたのに、その前提が崩れた。IOCの遅すぎた決断は、日本の陸上関係者の努力を無駄にした。その責任は重い。

もしもの話になるが、もし最初から札幌開催が決まり、その選考会が札幌で行われたならば、MGCを盛り上げた設楽のスタートダッシュがうまくハマり、結果が変わっていたかもしれない。

とはいえ日本の選手は気持ちを切り替え、前を向いているようだ。80年モスクワ五輪代表になりながら、冷戦の影響で日本選手団がボイコットとなり出場できなかった瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダーは、MGCで2位に入った服部勇馬(トヨタ自動車)と話をした時、「瀬古さんのようにモスクワオリンピックでボイコットになるわけではないので、僕らは幸せです。まだ札幌という地でマラソンができるということは、本当に瀬古さんたちと違って、僕は幸せだ」と伝えられたという。それを聞いた瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダーは涙が出たそうだ。

MGCは東京五輪とのつながりという点では意義が薄れてしまったが、選手の競技力を引き上げる契機となったのは大きな功績だったと言える。というのも、MGCは記録の活性化を生み出した。そもそもMGCに出るためには17年8月以降のマラソンで一定のタイムと順位の基準をクリアしなければならなかった。マラソンに取り組まねばならなかったことで、若手がマラソンに積極的に挑戦する流れが完成した。それが設楽悠太(ホンダ)、大迫傑(ナイキ)の日本記録にもつながった。

マラソンはオリンピックの華とも言われる。MGC、そして良くも悪くも札幌移転で話題になった今こそ結果を残せば、よりマラソン人気も高まっていくことだろう。


星野泉