世界陸連の新規則が明らかになってから、わずか5日後の2月5日、ナイキは新たな厚底シューズ「ナイキ エア ズーム アルファフライ ネクスト%」(2月29日発売)を発表。それは新ルールに適応したもの。完全にナイキの〝シナリオ通り〟に展開は進んでいた。

まず世界陸連が示した新ルールのポイントはこうだ。
 ・ソールの厚さは40ミリ以下
 ・ソールに埋め込まれるカーボンプレートは1枚まで
 ・スパイクは靴底30ミリ以下
 ・4月30日以降の大会では4ケ月以上の市販期間がなくてはいけない
 ・医療上の理由などを除き、カスタマイズをすることはできない

もともと長距離界はナイキの厚底シューズ「ヴェイパーフライシリーズ」が席巻していた。従来、トップ選手は薄底の方がいいというのが主流だったが、その常識を変えた。厚底の中に挟み込まれた炭素繊維のプレートが反発を生み、大きな推進力になっている。またクッション性も両立しており、エネルギー効率を高めているのが速さの要因だ。

この厚底を使用した選手は、近年の主要国際マラソンの上位を独占した。世界新記録を出した男子のエリウド・キプチョゲ(ケニア)も女子のブリジット・コスゲイ(ケニア)も、記録達成時に履いていたのは、ナイキの厚底だった。日本でも大迫傑(ナイキ)、設楽悠太(ホンダ)ら多くのトップ選手が使用。井上大仁(MHPS)はマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)ではアシックスを使っていたが、ナイキに履き替えた。マラソン、ロード競技があまりの高速化に導かれたため、世界陸連が専門家チームによる議論と検証を行った。それで設定されたのが、今回の新ルールだった。

■過去には競泳「レーザーレーサー」の騒動が

道具の新技術と、ルールのせめぎ合いは過去にも存在した。記憶に新しいのは競泳のスピード社が開発した水着「レーザーレーサー」の騒動。北京オリンピックの開催となる2008年。超極細ナイロン繊維で隙間に入る水の量が減り、また表面に張られたポリウレタンの被膜が胸や尻など体の凹凸を抑える「レーザーレーサー」を着用した選手が次々と驚異的な記録を生み出した。それを着ない選手と、着る選手の成績は顕著に開く状況が生まれた。他メーカーと契約していた選手も「レーザーレーサー」を着ざるを得なくなった。同年のジャパンオープンの男子200メートル平泳ぎ決勝。北島康介がスタート前に着ていたTシャツには日本語、英語、中国語で、こう書かれていた。

「泳ぐのは僕だ」

選手以上に「レーザーレーサー」が大きな注目を集める事態になっていたからだ。当時、たしかに選手を押しのけて、主役は水着になっていた。
北京オリンピックでは32種目中21種目で世界記録が更新された。翌年の世界水泳では43の世界記録が誕生するという記録的な大会になった。そして今も、「高速水着」によって生み出された世界記録は多く存在している。

■新ルールで規制も、ナイキの勢いは止まらない

「レーザーレーサー」と「厚底シューズ」の狂騒曲は似た側面も多いが、決定的に相違する点がある。
「レーザーレーサー」は10年を最後に規制の対象となった。一方で、ナイキの厚底シューズは事実上、規制を免れた。

ナイキが発表した「ヴェイパーフライ」シリーズの後継モデル「エアズームアルファフライネクスト%」はソールの厚さが39.5ミリ。世界陸連の新ルールである「厚さ40ミリ以下」をギリギリでクリアしていた。昨年10月、キプチョゲが非公認とはいえ、人類史上初となるフルマラソン「2時間切り」となる1時間59分40秒をマークした時に使用していたプロトタイプ(試作品)では内蔵しているプレートは3枚とされていたが、発表時にはルールの範囲内となる1枚に変わっていた。規制の網を見事にかいくぐった。もちろん東京オリンピックでも履けることになったのだ。

今回の世界陸連の決定に、あるメーカーの関係者は憤る。
「あれはナイキを規制している議論をしているようで、事実上はナイキの優遇策になりました。ナイキファーストで、それどころか、ライバル社つぶしですよ。本当にありえません」

どういうことか?
問題は「4月30日以降の大会では、4ケ月以上の市販期間がなくてはいけない」という部分だという。これがライバル社にとっては寝耳に水。大きな影響は避けられない事項なのだ。そして長距離用のシューズだけでなく、短距離のスパイクなどトラック種目にも、この新ルールは適応されるため、影響は広範囲に及ぶ。

具体的な例を挙げると分かりやすい。7月下旬から8月上旬のオリンピックで使用するには、3月下旬から4月上旬には市販されていなくてはならない。一般的にメーカーはオリンピックを1つの基準にし、そこから逆算し商品開発、PR戦略を練る。オリンピックで新商品を履いた選手が活躍すれば、商品は大きくヒットする可能性が高いからだ。注目度が段違いのオリンピックの影響力を考慮し、日本のメーカーは夏前から秋に新商品をリリースすることが多い。

にも関わらず、新ルールに則ると、選手にオリンピックで履いてもらうためには、計画を前倒して発売をしなくてはならない。商品開発が、現在試作段階だとしても、ここから一気に仕上げなくてはならない。突如として、一気に商品化のペースを上げなくてはならなくなったのだ。とんだ災難である。

そもそも、オリンピックならば4月までに発売すればいいが、その前にも試合はある。このままでは日本選手権含め、オリンピック前に自身が契約している社の最新作シューズまたはスパイクを履けない選手も出てくるのだ。関係者から怒りの声が出るのも無理もない。

今回の世界陸連の新ルール。ナイキにとっては、規制を逃れただけでなく、ライバル社に負の影響を与えられるものになった。ナイキの勢いは当分、続きそうである。


星野泉